去年の公演の批評を4名の方から頂きました。
お話頂いた方から順に掲載させて頂きます。
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「人間の呼吸に連動する生のリズム、律動の踊り…。力業と繊細さに溢れたパフォーマンス。」
並木誠氏(「トーキングヘッズ叢書No.68」より)
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「形のない声は、まさしく踊る身体がそこを通って、それ自身が形のないものへと流出していく通路そのもの。土に埋もれた身体、土だらけのままで立ち上がる身体は、身体変容という出来事を、まざまざと見せつける。」
北里義之氏(「季刊 ダンスワーク76 2016冬号」より)
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「菊地びよはこれまで自分の踊りを追求してき て、ようやく一つの明らかに優れた作品、舞台を作り上げた。…この方向を自ら発見したことは、舞踏を求める者にとって、 非常に重要なものだ。」
志賀信夫氏 (「季刊 ダンスワーク76 2016冬号」より)
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「菊地びよは、ダンスによって思考しようとしている。踊るための形式というよりは、…動きによって剥がれていく体の向こうの何かをつかまえようとしている…根源の彼方を目指していると言っていいかもしれない 。」
坂口勝彦 氏( 舞台批評研究)
『空の根 kuu-no-ne 声の生まれるところ』 @キッドアイラック・アートホール 2016年9月9日(金)
今回の公演は、とてもよかった。土に埋もれて始まるという少々無茶な行為にインパクトがあっただけでなくて、今までの菊地びよの良い方向が一歩先に進んだ感じがしたから。
それほど大きくはない舞台の薄暗い奥の方に何かがあるのはわかったけれども、それが何なのかはわからなかった。少し光りが指してくると、こんもりと盛り上がっているように見えてきて、なにかがもぞもぞうごめいている。何だろうと思っているうちに崩れたように少し何かが落ちて、どうやら土らしいとわかった。土の中のものは、ゆっくりと少しずつ動いていて、土がわずかに盛り上がってこぼれて、芽が出るように土の中のものがほんの少し顔を出す。もちろん、そこに埋まっているのは菊地びよでしかない。ちょっと湿っぽいように見える土、その中に埋もれているのはどんな感じだろう。ヒヤリとするのか、それともジメッとするのか、息苦しくはないのだろうか。もしかしたら気持ちいいのかもしれない……などと疑似体験をあれこれ妄想させる。
崩れかけているのは、埋もれている頭や手のあたりだろうか。菊地びよがそこに埋もれているとわかっても、いったいどこがどうなっているのか、うす暗い光のせいもあってはっきりしない。土の下の身体は、なんだかバラバラになってそのひとつひとつが芽を出したがっているかのように、独立してもぞもぞしている。不気味なような、おかしいような、どっちつかずの不思議なもぞもぞ。そのうちに、白いおなかのあたりが現れて、頭や足も見えてくると、ようやくひとつの体につながって見えてきて、ホッと安心する。と同時に、裸に近い姿で土に埋もれている皮膚感覚はどんなものだろうかと、あらためてジワリとその感覚を想像してしまう。でも、とりたてて大きな事を成し遂げたというような外連味もなく、菊地びよは少しずつ土から立ち上がる。湿った土が、皮膚の所々にこびりついて名残を残している。
土に埋もれてそこから這いだしてくるシーンには、不思議な既視感がある。丹野賢一も砂に埋もれたことがなかったか。カステルッチの『Hey Girl!』ではシルヴィア・コスタという少女がどろどろの粘土のような固まりの中から這いだしてきて始まった。ピナ・バウシュの『春の祭典』、アンヌ=テレサ・ケースマイケルの『ワンス』、先日のCo.山田うんの『いきのね』などは、土の上で踊った。田中泯はむしろ土の上で踊ることの方が多かったかもしれない。昨年のF/Tで強烈な力を見せたアンジェリカ・リデルの『地上に広がる大空』も、舞台の上のこんもりとした小山に土をかけたり寝っ転がったりするところから始まった。
そうした数々の作品の記憶をかすかに思い出して少しばかり菊地びよのシーンに重ねてみたりしながらも、このシーンの単純さと素朴さに驚く。アートを目指す捏造された美しさも、舞踏で追及されるという精神的(それとも身体的?)根源性もない。もちろん、ゾンビ映画のような、作り物のおどろおどろしさもない。ただ、土の中に埋もれて、出てきただけ、というサラリとした感じがあるだけ。菊地びよは、できる限り無色透明にしようとしているような気がした。たぶん、そこに何を見るかは見る者の感性の投影になるのかもしれないので、どう捉えられるかはわからないけれど、それでも、ただ土から出てくるという、それだけのものとして受け止めてもらおうとしているように思えた。
よけいな動きもないし、よけいな溜めもないし、よけいな震えもない。少しずつ土から立ち上がってくるだけ。
肌のあちこちに土の痕跡を残して立ち上がった菊地びよは、土のことは忘れたように、上体が空(くう)をさ迷う。力を込めて動くわけではなく、フッと手が伸び上がって体がそれに付いていったり、またフッと縮こまったり、呼吸をするように体が漂う。なにか特別な形を描くわけでもなく、ポーズをとるわけでもなく、踊るわけでもない。何をしようとしているのか、何をしたいのか、土から出てくる場面に比べると、はっきりとした行く先を見わけづらいけれども、何かを探りつつ動いているらしいことが感じられた。動きつつ感じ、感じつつ動き、その間隙に見る者を引っ張り込もうとするように。
今回の公演は土に埋もれて這い出てくるという、これ以上ないくらいに濃厚に土と関わりを持ったものだった。でも後半では、土は痕跡となって肌に張り付いているだけで、その先へと伸びていこうとする意志が感じられた。この大きく分けて二つのシーンの関係は、おそらく菊地びよにとってとても重要な点だろうし、この作品の要点でもあるはずだ。それをつかむことができたかというと、はっきりしないが、そこに菊地びよのいちばんつかみたいものがあるのだという感触が強く感じられたことはよかった。
菊地びよは、ダンスによって思考しようとしている。踊るための形式というよりは、体を分析する装置としてのダンスだ。舞踏やダンスに似ているところが時々あるけれど、その先を目的としていて、その探究に見る者は参加するようにさそわれる。でも、だからといって、重苦しくなるわけではない。菊地びよがそもそも持っている身体運動は、何の飾りも見栄も貼り付けていないサッパリとしたものであるから。そうして、動きによって剥がれていく体の向こうの何かをつかまえようとしているようなのだ。根源的なものを探しているというよりは、根源の彼方を目指していると言ったらいいかもしれない。根源というような重苦しいものではなくて、軽やかに霧散していくような動き。おそらくそれは、とても心地よい感覚を伴うものだと思う。菊地びよにとっても、見る者にとっても。
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以上、4名の方の2016年「空の根」への評でした。
各人方々の視点、有難うございました。
次回へ私なりの精進いたします。
皆さまよろしくお願いいたします。