:::::このサイトの内容に関するお問い合わせは下記へ(お気軽にどうぞ)。
:::::::吉田東伍記念博物館友の会 (阿賀野市立吉田東伍記念博物館内)
:::::::〒959-2221 新潟県阿賀野市保田1725番地1
:::::::Phone : 0250-68-1200:::E-mail : y.togo@oregano.ocn.ne.jp

::::
  :::▲『大日本地名辞書』第二版(いわゆる“合冊本”全4巻 1907年刊)と続編(1909年刊)


::::
::::▲近年見つかった『大日本地名辞書』の初版本(全11分冊 元装完揃 個人蔵)


  ::::
  ::::▲『大日本地名辞書』初版本(第一冊之下:端本)の表紙(初版は分冊のシリーズ刊行で完結
::  :: まで7年を要した。小口未裁断の仮綴じ本だったため、再製本されたケースが多い)
::  :: (吉田東伍記念博物館 所蔵)


:::: *************************************************************************

 

『大日本地名辞書』とは  

『大日本地名辞書』の基本情報

  吉田東伍が独力で完成させた全国地誌。日本歴史地理学の先駆的著書。わが国初の地名データベース。

  初版十一冊の正編は1907年に完結。約41,000項目。文字数約1,200万字。09年に北海道・樺太・琉球・台湾の続編を追加。今日まで版を重ね、現行版は1969〜71年に余材を増補して改版した増補版全八巻(現時、新刊として販売されているものはこれを新装にしたもの)。対象地名数は約53,600余。出版社は冨山房。

  第一巻は汎論・索引で汎論は地名学入門ともいえる「地名総説」、行政による地名改編の問題を論じた「政治沿革篇」、国号の由来を論じた「国号篇」よりなる。索引を首巻に配し利用の便に供している点は本書の特長の一つ。

  第二巻〜七巻の各説は原則国郡の区分にそって地名を配列。古文献、口碑・伝説等も含む諸資料を用いて考証、著者の独創的見解で論断。特定区域の歴史地理的事象を合記併載しており、集団執筆による地名事辞典類では統一をはかることが容易でない地域横断的な一貫した視点、記述を備えている点が最大の特色として挙げられる。

  いま第八巻に組み込まれている続編は、本来正編とは別に後に追修されたもので、北海道・樺太を藤本慶祐、琉球を東恩納寛惇、台湾を伊能嘉矩が編さんし全体を吉田が監修したものである。それぞれの各説の前に汎論が付されている。
  
  現行版(増補大日本地名辞書)各巻の区分は次の通り。
  第二巻:上方(京都府、奈良県、大阪府、滋賀県、三重県、和歌山県、兵庫県)、
  第三巻:中国・四国(京都府、兵庫県、岡山県、鳥取県、島根県、広島県、山口県、徳島県、香川県、愛媛県、高知県)、
  第四巻:西国(大分県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、宮崎県、鹿児島県)、
  第五巻:北国・東国(福井県、石川県、冨山県、新潟県、岐阜県、愛知県、長野県、山梨県[神奈川県]、静岡県[東京都])、
  第六巻:坂東(神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県)、
  第七巻:奥羽(福島県、宮城県、岩手県、山形県、秋田県、青森県)、
  第八巻:(続編)北海道・樺太・琉球・台湾(北海道、沖縄県、鹿児島県)。
  
  すでに初版刊行から一世紀を経ているが、わが国全土の歴史的地名の情報源としていまだにその存在価値を失わず活用され続けている。

【参考】

現行版(『増補大日本地名辞書』1992年刊 新装版・2003年刊 新装版第二版)のISBNは以下のとおり

第一巻 汎論・索引   ISBN978-4-572-00085-9
第二巻 上方       ISBN978-4-572-00086-6
第三巻 中国・四国   ISBN978-4-572-00087-3
第四巻 西国      ISBN978-4-572-00088-0
第五巻 北国・東国   ISBN978-4-572-00089-7
第六巻 坂東      ISBN978-4-572-00090-3
第七巻 奥羽      ISBN978-4-572-00091-0
第八巻 (続編) 北海道・樺太・琉球・台湾
             ISBN978-4-572-00092-7

クリックすると元のサイズで表示します

▲吉田東伍著 『増補 大日本地名辞書 全八巻』 1969年〜1971年 冨山房刊

***********************************CoPyright ©2009 Watanabe-Fumio*All Rights Resrved



 

特設ファイル(暫定設置)  


**************************************************************************

▼『大日本地名辞書』と吉田東伍に関するちょっとレアで “見て楽しい” 資料を時々アップします。

1889年12月、『大日本地名辞書』初版本刊行開始前に出版社(冨山房)が出した予約募集広告(『歴史地理』第1巻第3号中の広告頁)***
 ←見る

1907年秋、『大日本地名辞書』完成(初版本完結、第二版合冊版刊行)の際に出版社(冨山房)が出したチラシの表・裏 (『読書界』第1巻附録)
←見る 

1918年春、『大日本地名辞書』の著者吉田東伍の急逝をうけて出版社が打った広告(『歴史地理』第31巻4号表紙裏)
 ←見る

1907年10月、『大日本地名辞書』完成(初版本完結、第二版合冊版刊行)当時に総合雑誌『日本及日本人』(第469号)が取り上げた関連記事(「東西南北」での吉田東伍に関する動静記事/島田三郎の地名辞書序文(未定稿)【地名辞書へ掲載予定の三島の序文を未定稿の段階で同誌が掲載したもので、辞書に実際に載っている成稿と表現が異なる箇所がある】)  
←見る 
 


吉田東伍の「終えん」に付き添った三男 故・吉田冬蔵(とうぞう)氏の手記 『最後の父』
 ←見る


 

『大日本地名辞書』刊行に関するメモ  

@ 吉田東伍『大日本地名辞書』の版歴について

●以下に記載の版歴は、現物を実見、確認できた刊本のみを対象として記述しています(最新の情報を反映するよう随時修訂しています)。記載内容の不備にお気づきの方、またはこのメモに記載のない刊本の情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、何卒ご教示をお願いいたします。

初版は全11冊で、1900(明治33)年から1907(明治40)年まで、分冊方式で発刊された。・・・(↓メモA・B、当ブログ内記事【報告】/【100年目の話題@・B】を参照)

第二版(いわゆる「合冊本」)は、本編上、中、下の3冊と汎論・索引で全4冊が“正規構成”。のち続編(北海道・琉球・台湾:続編の執筆者は吉田東伍ではなく、東伍は監修者的存在)の1冊が追刊され5冊となった。続編の巻頭には著者の肖像写真図版が1葉付されている。本編と汎論索引が1907年、続編は1909(明治42)年の刊行。ただし、この第二版の“正規構成”の刊行履歴は仔細にみると複雑で、図書館などで一般的に登録されている書誌情報とは異なる“異版”の存在も確認されているので、注意が必要。四六倍判、背革角革張装。・・・(↓当ブログ内記事【100年目の話題@・B】を参照)

第二版 増刷版「明治増刷版」は1911(明治44)年、需要増にともなう増刷に際して、第二版の上、中、下、続編の4冊を6分冊の本編とし、汎論・索引を加えた全7冊本に装丁換え(割直し)したもの。四六倍判クロス装。

第三版「大正版」と呼ばれるもの)は1913(大正2)年刊行。新活字により組版を改めた全面改版。本編6冊に汎論索引の7冊本。四六倍判クロス装と同判天金背革角革張装がある。基本的には前版を踏襲した改版だが、一部著者により微補正された形跡を認め、注目される。なお、この版のクロス装版には俗に「赤本」と「緑(あお)本」と称される装丁色が異なる2様が存在する。著者生前中に刊行された最後の版。

縮刷版は本編6冊に汎論索引の7冊で、四六倍判の第三版を菊判サイズに縮刷したもの。1922(大正11)年から1923(大正12)年までに刊行された。底本の第三版まで末巻の北海道・琉球・台湾(続編)に付いていた著者の肖像写真図版頁が、首巻の汎論・索引の巻頭に移され(新影・半身像)、裏面に著者の実弟高橋義彦による「文学博士吉田東伍君行状」(全漢文)がプリントされている。背革角革張装。著者没後に刊行された最初の版。

再版「新修復興版」とされるもの)は本編6冊に汎論・索引の7冊、1937(昭和12)年から1940(昭和15)年まで刊行されたもので、戦後「増補版」の刊行を見るまで長く用いられ、一般に「戦前版」と呼ばれている。ただこの版は、前版である第三版(大正版)〜縮刷版に拠ることなく、前々版の第二版増刷版(「明治増刷版」旧編7分冊)を底本として同版の版面をそのまま90.65%サイズに縮刷、大型菊判の7冊本としたものである。前版の第三版縮刷版で肖像図版裏面に刷りこまれていた「文学博士吉田東伍君行状」が、首巻汎論・索引の巻頭、扉と肖像写真図版(新影)の間に挿し込まれた遊び紙に鴬色インクで印刷されている。出版社による「新修復興版」の謳い文句に適わず、本文中に修補の形跡を認めることができない。従ってこの版は厳密には第二版増刷版の“縮刷復刻本”と呼ぶべきものである。第三版で施された生前の著者による微補正が反映されずに先祖帰りしてしまった点が釈然としない。背革角革張りの上製本とクロス装の並製本がある。

増補版はいわゆる「戦後版」で、出版社冨山房が創業85周年記念事業として復刊。著者が旧本の執筆時〜刊行後の1916(大正5)年までに書きため、「用途の如きは必しも論せず」として旧本の原稿(和綴稿本469冊)とともに早稲田大学図書館へ“納進”してあった『大日本地名辞書餘材』稿本(76冊、8,363丁。続編を含まない本編全域の“余材”で著者はこれを「木屑竹頭」=竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)であると謙遜している)を新たに翻刻、旧編へ挿入増補したもの。冨山房社内に組織された専従編集チームのキャップは同社編集部長で柳田国男、折口信夫系の民俗学研究者青池竹次。余材原稿の翻字、整理分析から校閲作業までのすべてが青池の責任によってなされていることから、増補版は青池編集本と呼ぶことができる。増頁によりこの版から全8巻となった。新字体漢字が採用され、索引の五十音順も現代かなづかいに改められた。“余材”増補部分の項頭にはゴシック体で「補」字が付されているので旧本の記載部分と区別できる。初刷りは1969(昭和44)年から1971(昭和46)年の刊行。B5判、装丁は前期の刷版では背革角革張(フェイクレザー)装、後刷版は角革がとれた背革張になる。いずれも本文頁に特漉紙が用いられた堅牢な造本で、現在、公共図書館等で利用に供されている版はこの版が最も多い。当初のエディションでは誤植・脱字等が首巻を除く本文全巻で散見され、数頁の正誤表が刊報として附されていたが、後刷で修補訂正された。ただしこの版でも第三版で生前の著者が施し、著者没直後の縮刷版では温存されていた微補正の復元はない。また、ごく一部に本文への余材増補の記載配置が旧本の項目と合致していない部分が見うけられ、出版社が「旧本の誤字を訂正し、誤記に補注を加えて完本とした」「吉田先生の大日本地名辞書は、名実ともにこれをもって完結した」(内容見本)としているだけに惜しまれる。

新装版(いわゆる「平成版」)前版の増補版の装丁を軽装(背革張装を廃しクロス張り装)にしたものが1992(平成4)年に刊行されている。

新装版第二版(平成新装版の二版)2003(平成15)年に刊行されたもので、現在流通している(書店で入手できる)ものはこの版である。

・・・・・・・・・・・クリックすると元のサイズで表示します

▲『大日本地名辞書』初版本から平成版までの各版(下段から上段へ/吉田東伍記念博物館常設展示)


 
A 『大日本地名辞書』初版本(11分冊)の発行日と記載区分
(区分の名称ならびに( )は初版本奥付の既刊案内による)

第一冊之上:明治33年(1900) 3月31日  上方(五畿内)
第一冊之下:明治33年(1900) 6月18日  上方(江勢伊志紀淡等)  
第二冊之上:明治33年(1900) 12月27日  西国(中国即山陰山陽) 
第二冊之下:明治34年(1901) 11月 3日  西国(四国九州二島)
第三冊之上:明治35年(1902) 9月26日  北国東国(北陸美濃)
第三冊之下:明治35年(1902) 12月27日  東国(尾参信甲駿遠豆)
第四冊之上:明治36年(1903) 10月12日  東国(坂東相武二州)
第四冊之下:明治37年(1904) 12月29日  東国(坂東 六州)  
第五冊之上:明治39年(1906) 6月 8日  奥羽(盤城、岩城、陸前)
第五冊之下:明治40年(1907) 8月11日  奥羽
汎論 索引:明治40年(1907) 10月13日



B 『大日本地名辞書』の初版本が希少な理由

 『大日本地名辞書』は書肆、著者の当初の目算が狂い、結果的に起筆時に予定されていた頁数の約3倍という大幅な変更増となってしまった。これにともなって刊行期間も延滞したため、個人予約者の中途解約が相次ぎ、全11冊完結時まで7年間、気長に待った一括購入者は限られた。その上本書は小口未裁断(本の周辺を裁断しないまま)の仮綴じ本で表紙も薄かったため、継続的、本格的に利用しようとする購入者(特に図書館や学校など)は各々製本所へ持ち込み、表紙を付け直したり、合冊したりして再製本することが多かった。このため、初版本が出版当時のままの姿で残っている例は極めて少ない。

 初版本の完結とほぼ同時に出版された第二版は11分冊を本編上、中、下、汎論索引の4巻に合冊した(後に「続編」が加わり5巻)もので、これ以降は堅牢な造本になって出版された。第二版以降の累版本は時々古書市場に現れることがある。

******************************CoPyright ©2008-2011 Watanabe-Fumio*All Rights Resrved

2010/1/11

『大日本地名辞書』初版本の発見  

【報告】 (友の会通信第52号09.1.1所載)

 吉田東伍記念博物館で初公開された「地名データベース」の先駆
“幻”の『大日本地名辞書』初版本

 “幻”と思われていた『大日本地名辞書』の初版本が見つかり、当館に貸与された。これは『大日本地名辞書』完成100周年となる2007年1月、当館関係者が関東地方の某氏より入手、調査研究のため提供を受けたものである。
 『大日本地名辞書』の初版本は分冊頒布(全11分冊)のスタイルで、東京神田の冨山房(ふざんぼう)から刊行され、最初の「第一冊之上」が1900年(明治33年)3月、完結編となる「汎論索引」は1907年(明治40年)10月の発行と、シリーズの完結に7年半もかかった。刊行期間が延引したことに加え、肝心の造本もハードカバーでなく薄表紙、小口未裁断の仮綴製本であったこと等が禍して、今日では端本の状態でも残存例はごく少なく、刊行当時のままの原装全11冊完揃本の存在は長い間絶望視されていた。
 念のため当館で全国の公共図書館、大学、博物館等の所蔵状況を調査したところ、初版本全冊を保有している施設は東京国立博物館など3館確認できたが、いずれも改装や合冊などの補修が加えられており、原装で全11冊を保有している施設は皆無であった。このことからも刊行当時の状態を留める初版本が全冊完揃いで発見されたことは奇跡的であると判断されたので、同資料を一括、08年12月1日から12日まで特別臨時公開し観覧に供した。

クリックすると元のサイズで表示します

▲吉田東伍記念博物館で臨時公開された『大日本地名辞書』初版本(1900〜19007刊 全11冊完揃)

 青年期の吉田東伍は、明治政府が行なっている行政区の改編が、地域に固有の伝統や文化までをも消散させ、詰まるところ何処に行っても同じ顔をした金太郎飴的な地域づくりに向かっているのではないか…と疑心を抱いていた。斯様な地域再編で「地名」が失われることへの危機感と焦燥とをつのらせ、遂に31歳にして本書の編さんを決意する。

 地名と言うのはその土地に「固有」な文化・歴史(人々の営み)を示すそのエリアについた呼び名である。地名は単なる符号や識別記号ではない。識別するだけなら郵便番号のようなコードを並べるだけで十分だろう。東伍は土地の“個性”、歴史の発展形態の“個性”に注目して、この辞書を刻苦独力、足かけ13年費やして完成させた。地名辞書の項目立てを、明治に入って改定された行政区分に逆らって、わざわざ、上方、四国、中国、西国、北国、東国、坂東、奥羽など古くからの伝統的な国郡分けにし、和名抄以来の郷名を項目に採り入れたりしているのはこうした理由からの注意喚起である。

 吉田東伍は郷土の大地は日本の風土の一部であると見ている。すなわち日本を正しく理解するためには、これを組み立てている郷土を精確に、しっかりと見る必要があり、そのためには情報の集積化、共有化が緊要であると考えた。

 わが国全土の郷土の集大成=大日本地名辞書の誕生は社会的にも波紋を広げたが、何と言ってもこの辞書のデータが基になって、各地の郷土研究のとば口が開かれたことは長く記憶されるべきであろう。それまで一部の専門家や、好事家が秘匿してきた史的情報を東伍は誰もが利用できるデータベースとして構築し、そればかりでなく、その情報の援用、引用の仕方の範をも例示したのである。
 
 その点を真っ先に評価したのは東伍の親友、喜田貞吉(きたさだきち:1871−1939)であった。喜田は地名辞書第一冊之上が配布された直後、学会誌『歴史地理』(第二巻第二号 1900年5月発行)に「大日本地名辞書を読む」という文を寄せ、その中で以下のように激賞している。

「本書記述の体裁に於て多とすべき所は、其解説を下すに、多くは其事実を精確なる書籍より取り、且つその出所を掲げ、猥(みだ)りに架空の、断定を下す事を成さず、他人の説を採用せる場合の如きも、必ず特に某氏説と記して、其功を没せざらん事に注意せる等にあり。蓋(けだ)し、当今剽窃(ひょうせつ)流行の世にありて、著者の雅懐(がかい)欽慕(きんぼ)すべく、且や、かく説の出所を明にしたる事の、学者が之によりて更に研究せんとする場合に於て、利益少からずを信ずるなり。」

  これまた世紀を超えた銘ずべき警醒の評である。

                         渡辺史生(阿賀野市立吉田東伍記念博物館 館長)

2010/1/10

刊行100周年を経た『大日本地名辞書』  

クリックすると元のサイズで表示します

*************************************************************************

【100年目の話題@】 (友の会通信第43号07.1.18所載)

2種類存在した『大日本地名辞書 第二版』

 2007年は吉田東伍の『大日本地名辞書』が完成してからちょうど百年目にあたる。編さん着手から丸12年、初版の分冊(全11冊)出版開始から7年目、1907年(明治40年)の10月、「わが国開びゃく以来の大著述」は終冊となる汎論索引の発刊をもって完結した。
 同年7月26日、東伍は新潟の実弟高橋義彦に宛て次のように最終段階に入った編さん作業追い込みの様子を伝えている。

「(略)地書の五之下冊も今月中に製本配布の積りなれど如何にや、近日中に必ず御覧に入可申候。目下は巻首の汎論索引の印刷中にて大いに黒みがかっての戦争なり。八月末には印刷済の積りなれど是も順延にて九月か。右の訳にて掉尾の殿戦なれば博覧会の新潟盆踊どころにあらず(略)尋いでは大売出し一挙して十有三年の負債の万八千円を償却せんずる意気込なればこの場合兎に角岡勇み願上候。今春以来新潟地方の新聞一切見ざる事に致候処大に夢見もよく候(略)」

 1907年10月15日、『大日本辞書完成披露祝賀会』が上野の精養軒で賑々しく執り行なわれたが、実はこの催事こそ、今では茶飯事となったいわゆる「出版記念祝賀会」の本邦での嚆矢(こうし)…わが国最初の出版記念パーティーだった(と言われている)。
 地名辞書の初版最終冊、汎論索引の奥付の日付はこの祝賀会の前々日、「十月十三日」である。そして祝賀会のわずか二日後の「十月十七日」付けで「合冊本」と呼ばれる第二版、革背表紙の四冊本が発刊された。初版11分冊完結後、直ちに全巻揃いの第二版がセットで登場した訳である。初版では主に予約販売方式をとっていたので固定購入者を除き世間一般はこの書の全体のボリュームをイメージしづらかったのかもしれない。ところが、この合冊本が書店に現れて人々は「尋常ならざる大著述」ぶりに仰天したという。

 様々なエピソードを持つ大日本地名辞書だが、書誌上の特徴の一つにこの第二版以降の「汎論索引」の冊に収められた名士歴々による序文があげられる。初版の汎論索引には、いたってシンプルに東伍の自序が付いているだけであるが、大仰な題辞や序文が付載されるのは合冊本の二版以後である。これについて東伍の三男、故吉田冬蔵(よしだとうぞう)氏は、その著書(『新潟県人物群像5 究−真に生きる−』新潟日報事業社1989)で、

「出版された著書を有名人の序跋(じょばつ)の類で飾ることは、殊に明治大正期には当然だった。しかし『地名辞書』の場合は、これが特別仰山で、総計約三十四の多数に及んでいる。これは、本書の著者にはふさわしくないとも思えるが、この点は序文執筆者の一人芳賀矢一博士が後年語った言葉を聞くとよい」

と書き、『吉田東伍博士追懐録』(高橋源一郎編 私家版1919)中の芳賀矢一(はがやいち)の文章を紹介している。曰く、

 「地名辞書が出来た時、多くの知名の士の題辞や序文が巻頭に載せられた。私が或時博士に向つて、「あれ位の大著に、あんな序文をつける必要はあるまい」と言つた。博士は答へて、「世の中は盲千人だからね。書物屋の言ふ通りにするのさ」と言つて、さうして其の序文を一々翻して、これは九十点、これは八十点、これは六十五点などと評点せられたのはをかしかつた。「私の序文は何点ですか」と聞いたが、笑つて答へられなかつた。世間の或人は、序文で売るのは不見識だなどとも言つたが、博士の見識は、そんな俗見を超越したのであつた」

 吉田東伍が誰の文にどのような採点を付けていたのか興味深いところではあるが、ともあれ、今日私共はこの題辞や序文群を彼の人となりや交友関係を手繰る糸口として、あるいは出版の経緯の大略を把握するための貴重な証言集として利用しており、無くてはならない資料と見ている。

 さてところが、この無くてはならない資料が付いていない同一発行日の第二版合冊本(便宜的に「二版A本」と称する)も存在するからややこしい。どういうことかと言えば、つまりは大日本地名辞書の版元、冨山房(ふざんぼう)が初版の完結に合わせ、諸家からの賛辞を集めて、第二版の巻頭を飾るつもりで計画したはいいものの、何らかの理由で発行日に間に合わず、仕方なくこれを欠いた二版を一時流通に乗せたらしい。題辞序文を欠く第二版合冊本には次のような詫び文が半紙に印刷、付箋されている。

「本書に附属する諸名家の題字序評等紙数約八十頁は印刷の都合上製本に間に合ひ兼候につき此分は別冊に製本し出来次第御送付可申上候右不悪御承知被下度候」

 今日でも、古書市場で稀に第二版合冊本を見かけるが、大概は汎論索引の巻頭に題辞序評が86頁、ちゃんと付いている(「二版B本」)。これを欠く合冊第二版本を見かけたらレア物=稀覯書と言ってよい。おそらく発行は僅かの期間、部数も少数だったのだろう。

 ここから解ることは、吉田冬蔵氏や、芳賀矢一氏も指摘されているように、自著を諸家の序で飾り立てるというような仕業は、著者東伍の本意ではなかったということである。ただ当時これを誤解した人々も多く、滑稽新聞、宮武外骨(みやたけがいこつ)あたりが盛んに茶化しにかかったことも事実だけれども無論著者は相手にしなかった。
 吉田東伍記念博物館では上のB本を常設展示(館蔵品)しており、A本も書庫内に収蔵(個人蔵寄託品)している。機会があったら見比べていただきたいが、外見的な相違は全くない。
 ちなみに、たぶん東伍の厳しい採点にさらされたであろう諸家の序文の直筆原稿(吉田家蔵寄託品)については、常設展示してあるのでいつでもご覧いただくことができる。

■■■■■■■■■■■■■■■■
(渡辺史生 阿賀野市立吉田東伍記念博物館係長)

クリックすると元のサイズで表示します

▲『大日本地名辞書』の「第二版A本」の発刊後に諸氏の序文や題辞をまとめ、追補本(付録)として刊行された別冊『大日本地名辞書 題辞序評』の表紙 (小野民裕氏 所蔵)

*************************************************************************

【100年目の話題A】(友の会通信第44号07.3. 8所載)

見識と断案 個性的辞書の代表『大日本地名辞書』

『最新医学大辞典』(医歯薬出版)という本がある。医学・医療の専門家を対象とした解説付き医学辞典で現在3版を重ねているが、編集委員代表の後藤稠(ごとうしげる)氏は第1版の「序」の最後の部分で次のように記している。

「世に見識と断案という一言で評される個性的な辞典がある。遠くはサミュエルジョンソンの英語辞典、近くは吉田東伍の大日本地名辞書などがそれであろう。このような医学辞典は望むべくもないし、また望んではいけないとも考える。本医学辞典の特徴は、実用書たることに徹したことと思う。本辞典が医学・医療の学習・研究・実践に必携坐右の書となることを確信して、以上序文とする。」

 『大日本地名辞書』をあの有名な“辞書中の辞書”ジョンソン(JOHNSON,Samuel 1709−84)の英語辞典【A Dictionary of the English Language】と並ぶ個性的辞書として取上げているのだ。嬉しい。ただ後藤氏は編者の「見識と断案」を評価しつつもこうした「個性」の発揮は時と場合によっては制限される(現今の医学辞典のような場合…)、との趣意での紹介ではある。

 オックスフォード大を中退、妻にも先立たれ、生活苦に喘いでいたサミュエル・ジョンソンがロンドンの書籍商組合から英語辞書の編さん依頼を受け、着手したのが1747年、36歳の誕生日を数日過ぎた頃だった。以来、屋根裏の仕事場に篭り、ほとんど外出もせず、数人の助手の手を借りたとは言うものの、1755年までの8年間ほぼ独力で刻苦して、フォリオ版(2つ折版)全2巻の『英語辞書』を完成させたという。
 ジョンソンの英語辞典は収録語が多く、豊富な用例によって語義を明快に定義付けするなど、その後に出現する本格的英語辞典の模範となった。
 この辞書が今なお人々を魅了し続けている最大の理由は、語彙の説明が機知に富んでいて個性的だから、ということだが、一方、初版発行以来、世人から、これをして著者の自侭な「偏り」、“個人的見解”だと評される項目もないわけではない。

 たびたび持ち出される例で【燕麦(エンバク)=オーツ麦】の定義があるので見てみよう。

Oats : A grain, which in England is generally given to horses but in Scotland appears to  support the people.
燕麦:穀物の一種。イングランドでは馬に与えられるがスコットランドでは人を養う。)

 確かにこれでは冷やかしとしてもやや度を越えている。挑発に近い。そこまで言うかと激怒したスコットランド人も多かったが、ジョンソンの弟子で『サミュエル・ジョンソン伝』をまとめたスコットランド人のジェイムズ・ボズウェル(BOSWELL, James)の反論がふるっている。

Which is why England is known for its horses and Scotland for its men.
( それによってイングランドは産する馬で名高く、スコットランドは人材で名高い )

見事な応酬にイングランド人は脱帽、スコットランド人は溜飲を下げた。

 さて、わが東伍辞書でも、しばしばジョンソン的な(?)筆の走りと思しき表現に出くわすことがある。
 例えば、現・滋賀県東近江市にある「小椋谷(おぐらだに)」。日本の木地師の発祥地とする伝説が今日まで語り継がれている土地だ。即ち文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が法華経の巻軸が回転するのを見てロクロを思いつき、諸国流浪の後に小椋谷に入って現地の人々に木地を挽く技術を伝え、これが全国に広まったとするもので、柳田国男や白州正子なども著書でこの有名な伝説を肯定的に取上げている。
 今ではこれが村おこしの素材となり、関連施設や資料館、銅像までもが設置され諸々イベントが催されているのだが、東伍辞書の近江−愛知郡−「小椋谷」の項では、末尾になんと

「按に、惟喬皇子を木挽の祖なと云ふことは、事理を解せざる土俗の妄説なるべし」

とわざわざカッコ括りで付記し、切って捨てている。いやはや確かにその通りとは思うが「断案」の刃もこう鋭いと返り討ちが心配となる。

 もう一例、他でもない東伍の生地「安田」の項、

「安田は貞享二年安字を改めて保を採り、保田町と云ひ、今も大字には保田を依用す、此町昔火災ありしに、安田(アンデン)の反切は煙(ヱン)なれば、其安字を忌むべしとて改更したりと、拘忌(こうき)の陋習(ろうしゅう)笑ふべし」

 つまらない縁起担ぎにとらわれて地名の文字を替えてしまった人々…東伍にとっては地元の先人を「笑うべし」と書いている。クニモトの歴史の愚挙とする照れだろうか?それでももう少し言い様があるだろうにと同郷人としてはツッコミを入れたいところだが著者の筆はあくまで不羈(ふき)。遠慮なしである。

 東伍辞書の初版が分冊方式で頒布されはじめた際、届いた「第一冊上」を見た購入契約者はまず慮外の項目立てに驚いた。手にした本の内容が畿内地方の地誌だったからだ。大方は土地土地の様々な事項が分載されていて五十音順かイロハ順かはともかくも順々に自在に引ける辞書を予想していたのである。
 ところが東伍は大日本地名辞書は地誌であるとして、明治政府の行政区分の編成配列、名称を採らずに古来からの地名、すなわち「和名抄」の国郡の区分けによる編さん様式を採用した。各項目それぞれが連続した記述となっていてローカルな歴史地理的事項を合記併載、リズムある明快な文章で論断してゆく。読者が机上でその地域の様子をイメージできる工夫、地誌の大略を掴むことができるようにと独特の仕掛けをほどこした。
 100年間、代を継いで読者はこの仕掛けに魅了され続けている。世紀を越えた「個性」は輝きを失わない。

■■■■■■■■■■■■■■■■■
渡辺史生(阿賀野市立吉田東伍記念博物館係長)


クリックすると元のサイズで表示します

▲完成した『大日本地名辞書』の原稿をバックにした43歳の吉田東伍(1907年)

*************************************************************************

【100年目の話題B】(友の会通信第45号07.5. 8所載)

『大日本地名辞書』力戦奮闘の出版元と印刷所と

 1895年初秋、日清戦争従軍から帰還し東京麹町の借家に落ち着いた吉田東伍は『大日本地名辞書』の編さんを決意する。明治新政府が一旦は立案したが、「その機にあらず」と成しえずにいた国家的大事業…全国を統一した地誌の編さん…に三十歳そこそこの一民間人がそれも独力で挑むというのである。
 同年12月、事は既に着手済みとする東伍からこの壮大なもくろみを打ち明けられた市島春城(いちしましゅんじょう:1860−1944)は驚愕しつつも、「成し遂げれば一快事」と褒め、翌年2月、出版社冨山房(ふざんぼう)社主坂本嘉治馬(さかもとかじま:1866−1938)に掛け合って同社からの出版の了解をとりつける。
 初版本の「第一冊之上」が上梓されるのはこれよりのち4年の1900年3月、その全冊(11冊)が完結するのはさらに7年後の1907年10月と、起筆から完成まで足掛け13年の歳月が延々費やされた。坂本は回顧して言う。

「然るにその間、いつ完成するといふ見込みも確立せず、其頃はまだ冨山房が規模が小さく、資力も豊かでなかった故、自分は幾度か中止を考へた事もあったが、どうも先生の熱誠なる悉く御自分で書かれた何百枚といふ原稿を御自分から持って来られるのを見ては、どうしても営利を離れて出版を完了せねばならぬと、其時々に思ひ直して、随分苦しい事もあったが、博士に向かって中止の事を云ひ出す勇気がなくなってしまった。(中略)
 原稿が出来れば、五百枚千枚とちゃんと御自分で持ってこられて、黙ってたゞ「出来た」と其処へ突き出されるだけであった。こう温和しく出られては、義理にも出版を急がなければならぬ訳である。」

(坂本嘉治馬「故吉田博士を偲ぶ」『吉田東伍博士追懐録』1919)


 「初め先生とお話した時は約二千頁内外の予定であったが、それが三倍に増大して、とうとう七千頁に達したから商売として収支償いはない事は勿論、長い間の事で莫大な資金の固定を来たした。しかし出版業に従事する者はかゝる大著述のため相当の犠牲を払う事は寧(むし)ろ光栄と考へていたのである。そして先生が自筆の整理された原稿をお持ちになられたものを見ると、内は火の車でも、喜んで印刷所へ送った。斃(たお)れて後(のち)已(や)むの決心をする外なかったのである。」
(坂本嘉治馬「追懐七十年」『冨山房五十年』1936)

 破天荒な野人学者の冒険に賭けた明治期出版人の気骨が伝わる。

 大日本地名辞書の初版本全11冊の奥付に見られる奇妙な印刷所の変転は、あるいはこの坂本嘉治馬の四苦八苦に関連付けて見るべきものなのかもしれない。即ち、初版本の印刷所は刊行中6転し、5社が関わっている。

 ・第一冊之上下、第二冊之上下:株式会社秀英舎(京橋区西紺屋町)
 ・第三冊之上下:合資会社国文社(京橋区宗十郎町)
 ・第四冊之上:弘文堂(神田区表神保町)
 ・第四冊之下:博信堂(神田区猿楽町)
 ・第五冊之上下:株式会社秀英舎
 ・汎論索引:日清印刷株式会社(牛込区榎町)


と、いかにもせわしない。

 当館の展示を観ておられる方はご承知のとおり、初版本は天地・小口を化粧断ちしていない仮綴じ本である。これに「フランス装丁本」などと小ジャレた名を冠して呼ぶ向きもあるが、本来のフランス装とは造本方法がやや異なっていて、地名辞書の場合は単に製本工程のコストを抑えるための粗末な仮製本未裁断本と看做すべきだろう。このため、初版の辞書を本格的に活用しようとする購入者は、後日銘々製本屋に持ち込み、申し訳のような細い綴じ糸を断って本製本に改装する必要が生じたのである。転じて、今日巷に初版本全11冊の原装本の伝世率を低くしたゆえんでもある。
 
 第二版の合冊本は初版の版型をそのまま用いて刊行された。さすがに今度は三方が綺麗に裁断され上製背角革装となり、天地・小口には丁寧なマーブル付け(大理石模様の装飾)まで施されている。
 合冊本の上巻は初版の第一冊之上下と第二冊之上下に当り、中巻が第三冊之上下と第四冊之上、下巻が第四冊之下と第五冊之上下に相応し、通し頁、組にも一切変更はない。汎論索引の巻末に地図が新たに附録されたがやはり本文部分に改変はない。
 このため、頁を捲ってゆくと、今日の出版物ではほとんどありえない奇妙な現象を目にすることになる。一冊の本の中で、異なるデザインの明朝体活字が混在しているのだ。例えば中巻の2,644頁は初版では国文社が印刷した版であり、見開き隣頁の2,645頁は弘文堂が印刷した版のため、組は全く同一なのに左右で「ちょっと印象が違うぞ」ということになる。当時の活字は同一書体の同一号数と言っても書風・デザインは各社毎でかなり異なっていたから止むを得まい。版型のオリジナルに異同がないことの証左とすることもできるからよしとしよう。

 しかし、第二版合冊本になっても奥付に記される印刷所の“せわしなさ”が続くのには閉口する。
 まず、上巻と中巻には「秀英舎」印刷版、「日清印刷株式会社」印刷版、「凸版印刷合資会社(下谷区二長町)」印刷版のそれぞれ3様あることがこれまでに確認されている。初版の印刷所と整合していない点が不可解で、それに下巻が「株式会社東京築地活版所(京橋区築地)」版の1社、凡例・索引も「三協印刷株式会社(京橋区弓町)」版の1社のみというのも腑に落ちない。これらがダイヤル錠=数字合わせカギのような組み合わせパターンで流通しているから厄介だ。
 第二版は基本的に2種類ある、と以前書いたが、上記を加味すれば厳密には2種類どころか無数にあることになってしまう。「?」を解くためには今後各社の離合や社名変更の歴史等にも当たってみる必要があるだろう。

「当時は六号七号の活字は少なくもあり、また組む職人も少なかったが、神田の錦町の同志社と云ふ小さい印刷所に一人腕の優れた職人がいて、丹念に「地名辞書」の初巻を組んでくれた。当時の事が思い出されて感謝の念に堪へない。」
(坂本嘉治馬「追懐七十年」『冨山房五十年』1936)

 どうした訳かこの「同志社」という恩賞ものだったはずの印刷所の名はどの冊の奥付にも登場することはない。
有名無名の印刷所・製本工場の工人や職人が延べでどれほどの数関わり、辛苦して地名辞書を世に出したのだろう…100年前、初版の最終冊と合冊版初刷りを手にした彼らははたしてどんな表情を浮かべたのだろうか。

■■■■■■■■■■■■■■■■
渡辺史生(阿賀野市立吉田東伍記念博物館 副館長)

クリックすると元のサイズで表示します

▲複数の印刷所が刊行した初版本(11分冊本)の版をそのまま用いた第二版(合冊本)では、見開き左右のページで活字の印象が微妙に異なっている部分がある。(写真は二版中巻2,644頁/2,645頁)  ※写真をクリックすると高解像度の拡大画像を見ることができます(例えば、ひらがなの「し」や「あ」で違いが判ります)

*************************************************************************
【100年目の話題C】(友の会通信第46号07.7.10所載)

現代韓国で話題沸騰?の『大日本地名辞書』

「日本内最高権威の地名辞書」

 2005年3月5日、韓国の主要新聞「朝鮮日報」が【일본‘독도는 조선 땅’시인 책자 발견】(日本“独島は朝鮮領土”是認の冊子発見)という見出しの記事を写真入りで大きく掲載した。ソウルの「聯合ニュース」も同様の内容の記事を4日夕方に全国配信、地方各紙はこぞってこのニュースに飛びつき取り上げた。
 記事に添えられた写真は『増補大日本地名辞書』第三巻435頁上段の紙面を接写したもので、所有者が引いた傍線や、和暦年号を西暦にした書き込みも見える。
 写真のキャプションは【독도는 조선 땅 시인한 대일본지명사서】(独島は朝鮮領土是認する大日本地名辞書)とある。

 要するに日韓(朝)がそれぞれ領有権を主張して現在も係争中のこの島(独島、日本の呼称では竹島)に関し、明治時代に日本で刊行された地名辞書では朝鮮の領土とする記載があるではないか、というものである。その文脈の中でこそと言う事もあろうが、吉田東伍の『大日本地名辞書』を【일본내 최고 권위를 갖고 있는 것으로 알려졌다.】(日本内で最高権威を持っていることで知られている)と最大級に持ち上げている。
 
全文を邦訳すると次のようになる。(パラフレーズせずに直訳した)


 《日本が 1620年代と 1880年代にも独島の領有権を主張して、朝鮮地であることを是認した内容が記述された日本発行の冊子が発見された。
 歴史学者でヤマト(邪馬台)問題研究所長の朴炳植(パク・ビョンシク:76、京畿道高陽市徳陽区화정洞옥빛마을)氏は4日、全8冊からなる“대일본지명사서” (大日本地名辞書)を公開した。
 朴氏は1980年代と90年代日本にとどまって、古代日本語が使われた大日本地名辞書を中心に韓日古代交流史を研究してきた。島根大学で4年間古代史の講義もしたりしている。
 朴氏は「大日本地名辞書は日本の著名な史学者が作った事で独島が私たちの領土であると確かめていると言う点で意義がある」さらに「最近、日本で独島妄言を言うなど、また(訳者註:日本が)領有権を主張するから公開することにした」と明らかにした。
 大日本地名辞書では島根県近隣中部地方の地名を紹介している第3冊(訳者註:第三巻のこと)434〜435頁で「竹島」を別途小見出しで紹介し、韓日間で独島領有権争いが2回起り、日本がその時ごとに独島が朝鮮の地であることを是認したという内容を記している。
 この冊子は明治33年(1900年)3月31日に初刷りが印刷され(訳者註:この日付は初版11分冊のうち第一之上の発行日)、当時、日本第一の史学者と評価を受けた요시다 도고(吉田東伍)が著した。
 この冊子は第一冊の書き始め(訳者註:凡例索引に付された序文を指す)に当時日本内閣官僚達が「立派だ」と賛辞を贈った書評集が記述されているなど、地名辞典では日本内最高権威を持っていることで知られている。
 朴氏が持っていてこの日公開した冊子は1986年の増補版だ。
この冊子に拠れば1621年、무라카와 마사가쓰(訳者註:村川正勝)という人が独島へ行って朝鮮人二人を生け捕りにした後、朝鮮政府に竹島往来を公認してくれと訴えたが、朝鮮政府は1623年米子(現在の鳥取県)人が竹島に行き来することを禁止した。
 事情がこのようになると日本江戸幕府は対馬島領主の宗氏に朝鮮政府と談判するように指示した。
 宗は直ちに朝鮮に「我が地である竹島に貴国(朝鮮)漁船が頻繁に侵犯していて、我ら漁民二人を捕ったのでこれから還す」と抗議した。
 しかし、朝鮮礼曹は「その島(独島)が朝鮮に属すということは、文献を見ても、わが国との距離から判断してもあまりに明白であるのに、所有権を主張するなど、それが誤解であることは明らかである」ときっぱり断った。
 江戸幕府は以後朝鮮と和解して1699年ついに日本人が独島に行くことを禁止したことが記録されていると朴氏は語った。
 またこの冊子は明治16年、1883年にも韓日両国がもう一度、独島領有権争いをしたことも記録している。
 当時日本政府は朝鮮との交渉で独島に渡った日本船を全て撤収させて、二度とそこへ行かないよう言いつけ、独島が朝鮮領土であることを明確にした。
 朴氏は「この冊子は日本が独島を含む日本領土の地名を記録したものだが、第3冊435頁に1883年の記録で“明らかにに朝鮮の所属”と記録されているくらい独島が朝鮮領土であることを是認していた」と強調した。》


 上の記事の韓国内での反響は凄まじかった。韓国のこの手の話題を取り上げているインターネット掲示板やブログに一時「대일본지명사서(大日本地名辞書)」や「요시다 도고(吉田東伍)」のハングルが溢れた。総合雑誌『月刊朝鮮』も増補地名辞書の外装の写真、当該頁の拡大写真を載せ紹介した。
 政治的生臭さのために腰が引けたか、あるいはややこしい歴史検証を鬱陶しいと見たのか、日本のメディアが隣国のこの騒ぎをほとんど黙殺してしまったのは残念というほかない。

 吉田東伍の朝鮮半島への関心は青年期からのものだが晩年に近づくにつれ次第に昂って行った。若い頃は「蔵書は手元に置かない」主義者だったのに、大正4年夏に渡韓し京城(現ソウル)で日朝の歴史比較を講演した頃から様子が変わる。「彼の書斎の四壁に朝鮮版本がうず高く積まれたのもこの頃からで、楽浪書斎の蔵書印もできた」(東伍長男故・吉田春太郎氏による。「楽浪」はBC108年からAD313年にピョンヤン付近にあった郡の古称。東伍は“楽浪逸民”の別号を用いていた)
 東伍没後、遺言により蒐集された膨大な朝鮮本の大部分は早稲田大学図書館と新潟県立図書館に納まり、版本以外の貴重資料等は今日新潟市の吉田家に遺存している。
 
 現代的課題と鋭く切り結ぶ歴史学を旨としていた吉田東伍。彼ならきっと今日の日韓の歴史認識問題や竹島問題等への適切な処し方を提言できたに違いない。

■■■■■■■■■■■■■■■■
渡辺史生(阿賀野市立吉田東伍記念博物館 副館長) 

上記の記事に登場した『大日本地名辞書(増補版)第三巻』の該当ページ(434P−435P/竹島=独島の記述部分)を見る←クリック (PDFファイルです)


2009/3/9

無謬ではない吉田東伍と『大日本地名辞書』 @  

【資料紹介】 (友の会通信印行版未掲載)

 賛辞ばかりではなかった『大日本地名辞書』
… 宮武外骨「滑稽新聞」からの筆誅 …

  
 今さら言うまでもないことだが、『大日本地名辞書』…東伍辞書とも呼ばれるこの名編の初版以来の累版履歴は、同書が世紀をまたいで人々から支持され続けている証(あかし)である。その著者吉田東伍にしても、53年という短い生涯の略歴と膨大な著述論文のリストを見れば、まさしく立志伝中の人物であり、傑出した歴史家であったということが納得できるというものだ。
 だがしかし、このように今日に至るまで、高評価を持続させてきている著書と著者とではあるけれども、折々“ 賛辞ばかりを受けてきた訳ではなかった ”、という現実にも私たちは注意を払う必要があるだろう。

 吉田とその主著に対する場合には当たらないと信じたいが、よくありがちな「○○顕彰」や「○○記念」等と称する目論見では、対象への過度な感情移入からだろうか、諸々の加飾が施され、誇大な褒めはやしや、歴史的事実に基づかない過賞に走る事例を目にすることがある。さらには、対象にとって不都合な情報の隠蔽、秘匿が行なわれるようなことすらあるらしい。こうしたやり口から組み立てられる偏頗な偉人伝説は往々にして世人の眼を曇らせ、対象を偶像化してしまいがちで、結果的には実態のない異形な虚像の捏造に手を染めることになる。

「人間過去の事跡は、之を伝説する個人や、衆人の感想で以って、毎毎変改せられます。それ故に、歴史に対しての研究、発揚も、とかく牽強付会に流れることが、古今一般の常識である」

 これは他でもない吉田東伍が生前中自ら編んだ唯一の選集とも言える『生活と趣味より観たる日本文明史話』の巻頭の一節だ。まさに吉田東伍の歴史研究はこうした“牽強付会”の所業とは対極にある透徹した史眼によって貫かれていた。

 さて今回は、吉田の上記の箴言を含意としつつ、あえて吉田とその主著にとってはけしてポイントアップにはつながらない…むしろ率直に言ってマイナスポイントとなる記事を紹介することにする。
 
 下に添付した一連の記事は風俗史家・ジャーナリストの宮武外骨(1867−1955)が『滑稽新聞』に、地名辞書初版完結・第二版刊行の翌月、明治40(1907)年11月から翌年3月にかけて載せた吉田と地名辞書(ならびに出版社冨山房、社主坂本嘉治馬)に対する論難である。  

 管見の限りにおいては、吉田とその主著に対する公開批判・攻撃としては最も辛らつ、かつ継続的なものである。吉田が受けたダメージは相当なものだったと思われるが、これに対する吉田側からの公開の場での具体的反証を示す文献は今のところ見つかっていない。
 
 外骨の張ったキャンペーンは(当事者の意に反して)皮肉にも、当時『大日本地名辞書』の出現が、一種の社会現象を生んだ、という事実を今に伝えるものとなった。これら一連の記事は吉田東伍とその主著を語る上で欠くべからずの客観資料と言える。

(下記画像中の罫外のゴチック体の見出し、号数、日付は引用者が付したものです)

◆『滑稽新聞』第151号(明治40年11月20日発行)から第155号(明治41年1月20日発行)
見る(PDFファイル1.08MB)

◆『滑稽新聞』第156号(明治41年2月5日発行)・第157号(明治41年2月20日発行)
見る(PDFファイル1MB)

◆『滑稽新聞』第158号(明治41年3月5日発行)・第159号(明治41年3月20日発行)
見る(PDFファイル0.8MB)

                         渡辺史生(阿賀野市立吉田東伍記念博物館 館長)



AutoPage最新お知らせ