2007/7/2
真言宗の坊さんの集まりでは、その最初によく
般若心経が唱えられる。伝授会や講習会もしかり、
朝礼や会合などでも基本的にそうするようである。
思うに、これはとてもよい習慣である。何か事を
開始するにあたって、現象は本来「空」であると
いう教えを皆でお唱えしてから取り掛かるのであ
るから。いつから誰が始めたのか分からないが、
素晴らしい開始儀礼である。
また、前にも書いたことがあるが、般若心経読誦
の効果として、人間の自我や謬見によってゆがん
でしまった時空を本来の無為自然の状態に戻す働
きがあるように感じるので、仏教者としては誠に
ふさわしい開始儀礼であろう。
で、この開始儀礼としての般若心経は、一般人が
行ってもまったく同様の効果をもつと考えられる。
とくに、大勢の人が一緒になって心経をお唱えす
るとなると、大衆の威神力が加わるだろうし。
(まぁ、一人でお唱えするとなると、その個人の
心経に対する理解や信仰、それに熟練度などの要
素が加味されることにより、効果の強弱が現れる
かもしれないが。)
故に、複数の人が集まって事を為すときには、最
初に皆で声を合わせて般若心経を読むことをお勧
めしたい。心を合わせ、呼吸を合わせてお経を読誦
することによって、全員の心意識の統一もはかれ、
まとまって行動することもできるだろうから。
皆様、何か事を始めるときには、最初にまず般若
心経を一巻、お唱えしてから始めるというのはい
かがでしょうか?

0
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。
投稿者:圓寂坊
呪文という言葉は凡夫にとって魅力的に聞こえますしね。
また、般若心経には実際それ以上の功徳力がこもって
いると私は信じております。
…まぁ、私なんかそれ(呪文の魅力)に引っかかって
密教に足を踏み入れたようなもんです。
仏陀は偉大なり!
投稿者:Taka
なるほど。いつもの餌なのですね。^o^
どおりで般若心経の訳を知らない爺さんバアさんが多い分けですよね。
また御利益を求める事は哲学するよりも迷いは少ないですからね。なんせ無心に生きる事に集中している証拠ですから。是煩悩即涅槃って事でしょう。
投稿者:圓寂坊
はい、明鏡止水の静かな心であればこそ、敵の心の
わずかな兆しを捉え、先をとることができるのでしょうね。
さらにその先の世界もあるような気もしますが。
投稿者:宗准
そういえば、武術の究極も「無心」でしたね。とらわれない心を目指そうと思います。
ふふっ。いいですね、Takaさん。いつも的確に私の
意を汲んでくださいますね。
おっしゃるとおりですが、いつも言うように仏教は方便の
教えでもあるのです。呪文の効果をうたったほうが
皆さん一所懸命にやるでしょ。煩悩即菩提ともいいますし。
Takaさんもそのようなことをどこかのコメントで言って
なかったでしたっけ。
やばい時、自らを虚無化して危機を通り過ぎさせて
しまう方法論は究極ですね!
投稿者:Taka
うーん、、、僕もそう推理してましたよ。残留思念の蓄積における力。
でも般若心経は真実や悟りの事ですから思念の消滅を扱っているのではないでしょ
うか?無心である事の平和、愛、安堵。純粋意識への回帰。どう考えても真実は作為(思念)を超えたもののように思えますが、、、
ギャーテーギャーテーの所はさすがに呪文ですからかえって訳さないほうがいいように思うのですがね。
圓寂坊 さんのこのブログ読んでたら、マトリックスのあるシーンを思いだしまし
たよ。かなりヤバイところで主人公が「There is no spoon,there is no spoon...」っ
て唱えてるんですよ。「スプーンは存在しないんだ。全ては空なのだ。」ってな感じなんでしょうね。
こんばんは、宗准先生。
いえ、邪道などではありません。各人各様のお唱えする
方式があり、それで心が統一され空の心境に近づくことが
できればそれでぜんぜんかまわないと思います。
私の場合は、以前師匠筋から、心経をお唱えするとき
には、その唱える自分の声を聞くことに集中すると良い
のだと教えられ、以来その方法を実践しております。
もちろんお経の句義を思惟することもありますが、
ただ聞くことに集中するように努めております。
…よく考えてみれば、般若心経は観音様のお経でも
あるので、音を観じるという方法もありだろうと思います。
投稿者:宗准
圓寂坊先生。
絶妙のタイミングでの記事。有り難うございます。ここ一ヶ月ばかり対人関係でイライラしとりました。早速心経で自身の心を清めようと思います。
Takaさんのコメントを読んで気がついたのですが、自分はいつも中国語を音読みしながらそれを日本語訳するのではなく、そこに凝縮されている意味をイメージするようにしています。
色即是空、空即是色、でも 「色すなわちこれ空なり」ではなく、映像として何かしら見えるようにしているのですが、この方法はプロの目からすると邪道でしょうか。
お経は古来より意味の解らない中国語で唱えられて
きたわけですが、それを訳さないことで呪文的に使
われていたのだと大学生のときに習いました。そう、
「空」の意味のこもった呪文なのです。またそれは
多くの先達たちによって伝承されたことにより、増幅
された「力」を持つに至ったのではないでしょうか。
投稿者:Taka
いつも思うのですが。般若心経は中国語訳ではなく、なぜ日本語訳ではだめなんでしょう。もともとは印度のものだし、、
僕は始めて日本語訳を読んだ時の感動は凄まじかったですよ。(今もですが、、)
哲学の終り、究極の答を感じましたよ。