圓寂坊の現実!

今まで謎とされていた圓寂坊の
活動状況・思想・妄想・幻想…
そして告知事項などを書き綴るブログ

 
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投稿者:Taka
大丈夫。^o^v
何故我々は人と一緒に美味しいものを食べたり映画をみたいのでしょう?
なんで僕は圓寂坊 にこんな話をするんでしょう?
それは我々には共存の本能がありそこに幸せを感じるからでしょう。
分かちあう事は非常に楽しい事です。これも自分の人生を究極に利する道。
なんと世界はうまく出来ているんでしょうか!
投稿者:圓寂坊
でも、困っている時に、誰かが救いの手を差し伸べて
くれたら、有難いし、うれしいと思いますけど。
(↑してもらうことしか考えてない。(;^_^A)

自分を究極に利する事は他人を利する…というのには
激しく同意します。
投稿者:Taka
お返事ありがとうございます。
悟りや精神世界は努力ではなく姿勢だけではないんでしょうか。只、今回言いたかったのは皆さん奉仕を目差していったい何世紀たっているのでしょうか?
僕に言わせれば出来る分がないという事にもうそろそろ気付いたらってことなんですよ。先ず「奉仕」という言葉から分析すると良いでしょう。何のためにやるかですよ。それを。どんな綺麗事をならべても最終的には肉体的か精神的自我が生き残るために過ぎないですよね。
しかし自我は肉体から発生しているので(ある見方に於いては)肉体よりも自我を優先した場合、肉体にとっては不利な状況が訪れます。ここではどちらが正しいとは言いませんが、もし飢えや寒さや死等を避けようと目指すなら肉体を優先させるべきでしょう。それを養生と言うのではないんでしょうか?
結論としては奉仕などと言う美徳の虚像を捨て去って、逆にエゴイステックに自分が生き残る事を真剣に考える事をしたらどうかって事です。こんなに自然なことはないんですから。
醜く聴こえますが、自分を究極に利する事は他人を利する事なんですからね。
世界は繋がってますから。
投稿者:圓寂坊
奉仕の心には無私の奉仕と何かを期待する奉仕がある
ということなのでしょう。天国の住人たちはもちろん
無私の奉仕に安住しているのだと思います。

ただ、二つの奉仕を峻別したのでは、始まりの芽を
摘むことにはならないでしょうか。

深い悟りと理解を心に蔵し、清濁何でも受け入れる
海のような人って素敵だなと思います。
投稿者:Taka
うーん。やっぱり皆さん奉仕の心というふうに捉えがちのようですね。
本物の奉仕とは無心によって起こるというのが釈尊や老子の考えです。
蜜蜂は花の蜜を吸いにやってきます。その時「俺は受粉を手伝ってやるぞ」とは言いません。また木々は私達のために酸素を生みだしているのではないし、私達は蝿のために排泄をしているのでもありません。
実の所、究極の自己中ではないかと常々感じております。
人が他人の為に何かをする時は絶えず美徳とかイデオロギーが主軸をなします。そうすると人は本心(養生して楽しく生きる)を失ない争いあいます。しかし人が自分自信を何よりもこよなく愛したとき、本分をわきまえ他人も大切にすることでしょう。なぜなら他人は生き残るためにとても大切なものなんですから。
そうやって生命は何億年もやってきたのではないでしょうか。
無心とはいつも徳を備えているものです。作為する者は必ず敗れます。
投稿者:圓寂坊
おはようございます、独善竜さん。
昨日今日とバタバタしていてチェックができず、
コメントが遅くなりました。失礼しました。

天国よいとこ一度はお出で〜♪というような歌が
昔ありましたね。お互いに奉仕の心で暮らせば
この世は天国なんでしょうけどねぇ。
投稿者:独善竜
ホステスさんにつまみを食べさせてもらっている酔っ払いが、
幸せそうな顔をしている理由がわかりました。
天国での記憶が甦ったに違いありません!く(^.^)ノ
いつもこんなコメントで申し訳ありません。m(_ _)m

http://dokuzenryu.exblog.jp/
投稿者:圓寂坊
おはようございます、北斗柄さん。

なんと、少女漫画にまで出ていた有名な話だったんですね。
「エースを狙え」…懐かしいです。
投稿者:北斗柄
この話は、伝説の少女コミック「エースを狙え」でも出てきますね。

http://d.hatena.ne.jp/hokuto-hei/
投稿者:圓寂坊
なぁ〜んだ。もう既に布教でも使われているお話だったんですか。
私はてっきりキリスト教サイドのお話だとばっかり思ってました。
でも、三尺三寸の箸で物を挟むのは大変なような…。(;^_^A
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