正月でなまった体を何とかしようと思い立ち、久しぶりに三頭山(1531m)に行ってきた。山梨県上野原市と東京都檜原村の県境にあるこの山は、都民の森として整備されていて、登山道も広くて頗る歩きやすい。整備しすぎかという気もするが。
この山は、実は連れ合いとまだ付き合う前、連れ合いの記憶では7年前に友人達を交えて登った山で、当時は山登りも全くしていなかったので、息が切れて大変な思いをした。今回は難なく山頂へ。北面に一部雪が残っていたが、思った程は寒くない。氷点下ではないだろう。お約束の富士山。
帰りに三頭大滝を見てみたが、一部凍結してなかなか見応えがあった。滝の下部の方の写真だが、どこに水が流れているのかお分かりだろうか。
三頭山から檜原街道を経て上野原市に抜けるまでに、街道沿いに神社が2つある。数馬集落の村社、九頭龍神社と人里集落の村社、五社神社である。時間があったので2つとも訪れてみた。九頭龍神社の手水はかなりおいしい。五社神社は、鳥居がとても立派なので、どんな神社だろうと思っていたのだが、社殿になかなか辿り着かない。途中に、「聖徳太子」「念三夜塔」「百番塔」などの石碑がある。百番塔とは、一般的には西国(33ヵ所)・東国(33ヵ所)・秩父(34ヵ所)の聖地を巡礼した人が無事に100ヵ所を巡り終えた記念として建てるものらしい。まだまだか、と登ること10分くらいだろうか、ようやく着いた。
鳥居の横に石碑があり、読んでみると、この神社は元々五社尊社と言い、神社の格を得たのは明治になってから。御神体は、なんと6体の仏像だった!
御神体が仏像とは、いかにも神仏習合を感じさせるが、蔵王権現と不動明王5体を祀っているらしい。この6体が東京都の有形文化財に指定されたのを記念した石碑のようだが、「戦後、信仰の自由などということが言われるようになって、価値観が混乱し、子孫に伝えるべきものも伝わらなくなっている現状を嘆いて」云々という意味のことが書いてある。1968年に建てられた石碑だが、村落共同体の崩壊という事態が、この頃にははっきり分かる形で進行していたのだなぁと感慨深く思った。
私が生まれたのが1971年なので、丁度その頃である。それから40年近く経って、一度は都会に暮らしていたが、そこから出て藤野という場所を選んで住み着いている。40年前とは逆のコースである。そのことの意味をもう少し深く考えてみたいと思った。
ちなみに人里は「ひとざと」ではなく「へんぼり」と読む。諸説あるが、朝鮮系の人々がここに住み着いた際に、朝鮮語のフン(人)、ホル(邑/村)が変化したとも言われている。つい最近までは東京都の秘境のように言われていた村に昔渡来人がやってきていたとは?? 檜原村は藤野からも近いので、今後も探求を続けていきたい。

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