その3でも書いた道しるべ石。これは24番札所光智山法泉寺に至る116段の石段脇に置かれていたもの。
25番札所岩谷山久昌寺。その名の通り、岩壁横に観音堂が建っている。
26番札所の萬松山円融寺は、秩父観音霊場の中でもハイライトと言ってよいのではないだろうか。
本堂はこんな感じ。
観音堂は裏山の中腹にある。300段の石段を登らなければならない。
丁度300段目、岩洞を背にして観音堂が建っている。懸崖造の美しい建築で、岩井堂と呼ばれている。元来は、ここは6番札所とされて独立した寺だったのだが、麓にある26番札所の円融寺が岩井堂の管理に乗り出すようになって、いつの間にか円融寺の奥の院の様な位置付けになってしまったらしい。本尊も、円融寺の本堂に移されている。
岩井堂から更に登ること数分、山道に忽然と観音像が。何も知らなかったらかなり驚くのではないだろうか。正徳4(1714)年の銘が刻まれている。
更に登ると秩父修験道の修験堂が。
その昔、秩父修験道の行者達は、武甲山頂から伸びるこの尾根を日に何度も往復し、頂上からは両神山を拝んだという。行者達は江戸へ出て観音講を広め、喜捨を受けて仏像を作り、この地に運んだ。先ほどの観音像もその1つであった。岩井堂も、27番札所の月影堂も、28番札所の御堂も行者達と地元の協力によって建てられたものだという。
現在では武甲山は遠くからでも分かる通り削り取られた山となり、秩父修験道も寂れてしまったが、岩井堂に近接する琴平神社が中心となって、修験堂を再建、かつての修行道の一部をハイキングコースとして整備したらしい。
ハイキングコースを辿って、琴平神社に降りることに。途中、地元出身の実業家(浅野セメントや秩父セメントの創始者)を讃える碑文が。更に降りると琴平神社である。
元来信仰の山であった武甲山は明治期から石灰岩の採掘により姿を変えていく。山頂は40m近くも低くなり、縄文時代から近代までに至る歴史のあった信仰遺跡、巨岩群は完全に消滅している。歩を一にするように秩父修験道も廃れていく。武甲山には日本の近代化の一齣が刻まれているのである。
それを推進した人達が琴平神社に寄進をして、その神社が修験堂を再建したという図を見ると、どう考えたらいいのか何とも複雑な気分になるが、地元の様々な事情を考慮に入れないで憶測で物を語りたくはないので、この程度に留めておくことにする。

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