2021/1/14
時は明治半ば その頃の日本は 医療の貧しさから 風邪や
食あたりでも命を落とす人が多くあった 森下博は万病に効果が
あって飲みやすく 携帯・保存に便利な薬は作れないかと考え
新しい総合保健薬の開発に着手した
ヒントになったのは1985年(明治28年) 日清戦争後に台湾に
出征した博が目の当たりにした現地で常用されている丸薬 帰国後
博はまず大阪の道修町(どしょうまち)に通いつめ 知識と経験を
生かして和漢の生薬原料を取り寄せた

日本は勿論 世界の人々に幾百年も愛され続ける商品を その
思いで原料の品定めから取り合わせ 調合法まで工夫に工夫を
重ねた さらに当時の薬学の権威からアドバイスを受け 三年の
歳月をかけてようやく仁丹の処方を完成させることができた
主要な成分はカンゾウ・アセンヤク・ケイヒ・ワケイヒ・ウイキョウ・
ショウキョウ・チョウジなど十数種類 道修町の生薬問屋から選り
すぐった最高品種ばかりだった

1904年(明治37年)丸薬製造のメッカとして知られていた越中
富山へ博は単身で赴いた 大量生産の丸薬製造方法を学び
優秀な製丸士を採用することが目的 何日も泊り込み 何軒もの
丸薬製造会社を実地見学し製丸機を試した そして一ヵ月 博は
ついに最新の製丸機とすぐれた製丸士数名を引き連れて帰阪
道修町の店舗内でいよいよ本製造を開始することとなった
最初の仁丹は粒の大きな赤い丸薬 携帯性・保存性を高めるため
表面をベンガラでコーティングし 赤大粒仁丹として完成させ
1905年(明治38年)ついに発売にこぎつけた

現在機械化された工程から生産されているのは 1929年以来
およそ90年の歴史を持つ銀粒仁丹 カンゾウ・アセンヤク・
ケイヒ・ウイキョウ・ショウキョウ・チョウジ・アマチャなど
生薬は良品を厳選 それら原料を微細に粉砕したものを製丸機に
掛け 熟練工の手によって粒の大きさや丸みを調整 機械化
されたとはいえ原理は創売当時とまったく同じ方法 さらに
均一な粒は4日間という時間をかけじっくり乾燥させ 味を
壊さず芯まで乾かしている

形状の選別や異物の検知などを経て 合格したものだけを銀箔で
コーディング 厳しい品質管理のもとで 1粒の銀粒仁丹が
出来上がるまでに およそ8日という時間を要する 多くの
工程を機械化してもなお 手間ひまのかかる製品なのだ
http://www.genesis-ot.jp/
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食あたりでも命を落とす人が多くあった 森下博は万病に効果が
あって飲みやすく 携帯・保存に便利な薬は作れないかと考え
新しい総合保健薬の開発に着手した
ヒントになったのは1985年(明治28年) 日清戦争後に台湾に
出征した博が目の当たりにした現地で常用されている丸薬 帰国後
博はまず大阪の道修町(どしょうまち)に通いつめ 知識と経験を
生かして和漢の生薬原料を取り寄せた

日本は勿論 世界の人々に幾百年も愛され続ける商品を その
思いで原料の品定めから取り合わせ 調合法まで工夫に工夫を
重ねた さらに当時の薬学の権威からアドバイスを受け 三年の
歳月をかけてようやく仁丹の処方を完成させることができた
主要な成分はカンゾウ・アセンヤク・ケイヒ・ワケイヒ・ウイキョウ・
ショウキョウ・チョウジなど十数種類 道修町の生薬問屋から選り
すぐった最高品種ばかりだった

1904年(明治37年)丸薬製造のメッカとして知られていた越中
富山へ博は単身で赴いた 大量生産の丸薬製造方法を学び
優秀な製丸士を採用することが目的 何日も泊り込み 何軒もの
丸薬製造会社を実地見学し製丸機を試した そして一ヵ月 博は
ついに最新の製丸機とすぐれた製丸士数名を引き連れて帰阪
道修町の店舗内でいよいよ本製造を開始することとなった
最初の仁丹は粒の大きな赤い丸薬 携帯性・保存性を高めるため
表面をベンガラでコーティングし 赤大粒仁丹として完成させ
1905年(明治38年)ついに発売にこぎつけた

現在機械化された工程から生産されているのは 1929年以来
およそ90年の歴史を持つ銀粒仁丹 カンゾウ・アセンヤク・
ケイヒ・ウイキョウ・ショウキョウ・チョウジ・アマチャなど
生薬は良品を厳選 それら原料を微細に粉砕したものを製丸機に
掛け 熟練工の手によって粒の大きさや丸みを調整 機械化
されたとはいえ原理は創売当時とまったく同じ方法 さらに
均一な粒は4日間という時間をかけじっくり乾燥させ 味を
壊さず芯まで乾かしている

形状の選別や異物の検知などを経て 合格したものだけを銀箔で
コーディング 厳しい品質管理のもとで 1粒の銀粒仁丹が
出来上がるまでに およそ8日という時間を要する 多くの
工程を機械化してもなお 手間ひまのかかる製品なのだ
http://www.genesis-ot.jp/

投稿者:監督