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乃木神社

明治37(1904)年の日露戦争 第三軍司令官として乃木希典は

出征 難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃

するも陥落せず 延べ15万人の兵力を投入し そのうち約6万人

が死傷 戦死者は1万5,000人と その犠牲の多さに国内からも

批判が出る

そのため 指揮権を児玉源太郎総参謀長に委譲 結果的に

203高地を占領し ここから停泊するロシア太平洋艦隊を砲撃

したのである

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この日露戦争で長男の勝典(26歳) 次男の保典(24歳)の

2人が戦死 乃木家は後継ぎがいない状態 そんな中での旅順

奪還で悲劇の将軍として 乃木希典は国民的敬愛の念で迎え

入れられた

そんな中 乃木希典が責任を感じて自刃したいと思ったことがある

ただしこれが初めてではない 過去に2度死を願ったことがある

1度目は軍旗を奪われる失態で 2度目は多くの戦死者を出した

日露戦争の旅順攻撃の責任を取って

だがこの2度とも明治天皇に止められている

特に日露戦争の旅順攻撃の戦略に批判が集中 乃木希典は

軍事的に無能であるとの論争にまで発展している

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時は明治39(1906)年

凱旋帰国した乃木希典は 明治天皇に報告 その際に涙を流して

「仰ぎ願わくば 臣(私)に死を賜え」と平伏したという

これに対して明治天皇は このような言葉を残されたという

「今は死ぬべきときにあらず もし死を願うなら 朕が世を去りて

からにせよ」



明治45(1912)年7月30日 明治天皇崩御

度々明治天皇の見舞いに訪れていた乃木希典 天皇からは足音

で分かるとのお言葉を頂くほど それだけそれだけ病気回復を

願っても 天に聞き入れられることはなく崩御



希典をこの世に繋ぎとめていた唯一の人の死であった

9月13日大喪儀の夜 午後8時に号砲が轟き 5頭の牛に

ひかれた明治天皇の霊轜車が皇居車寄から 青山練兵場の

葬場殿に向けて出発したそのとき、乃木は妻の静子とともに

自刃した

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乃木希典の葬儀には40万人もの人出があったとか(一般的には

20万人ほどとも) その数は伊藤博文の国葬を遥かに凌駕した

という 電車の乗客は東京に電車創業以来の人数が乗ったとの

記載もある


もちろん 批判する人も一部はいたのだが 多くの人は こぞって

乃木夫妻の殉死を賞賛したという それだけではない ただ褒め

称えるだけでなく 実際に東京・赤坂にある乃木邸へと お参りに

足を運んだのである

こうなれば 国民の感情を推し量り行政も動くことに

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赤坂区議会はこれまで「幽霊坂」と不吉な名称で呼ばれていた

坂を 乃木希典が住んでいたことにちなんで「乃木坂」と改名

さらにその後も 乃木邸を訪れる人はあとを絶たず この状況を

みて 当時の阪谷芳郎東京市市長は 乃木邸内の小社に乃木

夫妻の霊を祀ることを決定

大将12年(1923年)建立された 尚乃木希典の故郷である

下関市にも建立された


http://www.genesis-ot.jp/
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投稿者:監督
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