「米と魚の文化を守る! 「だってドジョウだもの」ですまされない」
役立ち情報
2011年11月7日 月曜日
天皇陛下が入院された、とのこと。大震災後の被災地への見回られ方は過酷で体をむしばむものではなかったか、「自らやらなければ、ご自身にしかできない」と体のことを後回しにされていたであろうことは容易に想像できます。一日も早い治癒を願います。
TPP協議に参加を決定したというドジョウ総理大臣、国民の議論もなく結論もでていないのに決定するというプロセスは民主主義国家では許されないことです。しかもこれまで聞いてもいない情報がアメリカやそこらじゅうから次々と出てくるなかで意思決定をする、ってのは先の見えない道路を目を瞑って運転するようなものであり国民主権とは逆のやり方です。
ヌーボーとした風貌や慎重な言い回しに意味がない場合が多いのがドジョウ首相の特徴ですが、それは面従腹背であることがバレました。国民の多数意思に従うフリをして最初から自分で結論を出したように振る舞う、取締役会で決まってもいない売買契約を契約の相手方に対して「あなたの言うとおりの内容で契約します」って言っちゃう、というのですからドジョウは無茶苦茶です。「だってドジョウだもの」ではすまされません。
さて、主食と蛋白源は広くいえば地域や地方の食文化です。日本人は米と魚、欧米人は小麦と肉、という食文化を長い時間をかけて作ってきました。その食文化を中心としてあらゆることに違いを生じさせています。つまりTPPのように味噌も糞も一緒にしてカネだけの国家関係を作るようになれば食文化も文化も社会システムも崩壊する恐れが非常に強い、と思っています。
さて、米と魚の文化と小麦と肉の文化の違いは植栽に適した気候の違いと、植物由来の酵母の違いです。
米は高温多湿の地域でしか生産ができませんし、小麦は乾燥した冷涼な地域で生産ができます。東アジアに独特の酵母である麹が存在し酒・米・味噌などの発酵食品を生みます。麹は米由来の出芽酵母です(多分)。他方小麦由来のビール酵母はパンを作り、ビールを作ります。
おいしさでいえば米のほうが圧倒的においしいことに異論はありません。小麦はそのままでは煮ても焼いてもおいしくありませんが、米はそのまま炊いてもおいしく食べられます。塩をかけただけでもおにぎりはおいしい。小麦は高度成長期に時の池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」といったように小麦の入ったご飯はおいしくありません。小麦は粉にしてパンにしなければ食べられないとも言えます。
米はアジアでは中東でも東アジアでも炊いて食べますが、欧米では例えばリゾットのように炒めてから煮る、炒めた米をフリットにするような複雑な食べ方をします。アジアは主食は米を炊いて食べるのです。
しかし同じアジアでも日本ほど米が定着している地域はありません。ロシアの内陸部や中東の多くの国では乾燥した大陸性気候のために小麦の生産に向いています。麦を粉にして使います。同時に牧畜が盛んだったために麦と肉と乳製品の食文化が育まれていきます。
パン・ビール・ウィスキーなどは小麦から、チーズ・バター・肉は牧畜から生まれました。
東アジアでは高温多湿で米作に適しています。水をたくさん使う文化です。水があれば魚もいます。こうして米と魚の文化は東アジアに広まります。魚は魚醤(ぎょしょう)が作られやがて日本では大豆に置き換わります。日本の一部地域ではイシルなどという魚醤が作られています。米からは麹(こうじ)が発生し、麹は醤油や味噌作りに欠かせない発酵成分です。もちろん酒造りにも使います。
また琵琶湖の鮒ずしに代表される「なれずし」はにぎり寿司に変化していきます。
このように食文化は地域の環境に大きく支配されながら現在の形になっていったものです。もちろんわたしたちは好んでパンも食べるし、肉もバターもチーズも食べますが、この国の文化を成り立たせているものは米であり魚なのです。
神社や寺院には山海の珍味をお供えするのが習わしです。多くの飲食店がありますがやはり人気は和食や割烹料理の店です。また醤油や味噌を食べずにいれば無性に食べたくなります。日本人にとって米と魚は生活に不可欠なのです。
日本の農業は確かに小規模ですから単位当たりの収穫量を増やすといっても限りがあり、コスト面では大規模農業に太刀打ちできませんし相対的に高価格になっていることも否めません。ただ消費者が購買する農産物価格は農業生産のコストだけではなく流通の過程で口銭を取るだけの農協という存在もあることに気づかなければなりません。
1日24時間、1年365日という区切りは人間の生活を中心とした時間です。地球には人間の時間とは違う時間があります。100年200年どころか1000年2000年1万年という時間です。
世界的な気候不順が今も起きています。3月11日の東日本大震災と津波、10月のニューヨークでの降雪、台風による奈良県・三重県の大被害、ヨーロッパやタイの大洪水、等々を考えれば現在の農産物産出量が激減することだってあると思っています。20世紀の100年は地球からみれば非常に落ち着いた、安定した状態だった、しかし、その安定が崩壊しつつある、地震や火山噴火や大洪水など地形に大きな変化をもたらすような天変地異が起き、それが引き金となって何年物間も食糧生産ができない、ということはいくらでもあり得るでしょう。地球が穏やかな時期には当たり前だと思っていた安定が、穏やかでなくなった時には地球の形を変えるほどの不安定を生むというのは当然のように思えます。
そのときに自国の民を餓死させてまで日本に食糧を提供する国家はありません。むしろモノがないのだから高く売りたい、と思うのが普通です。日本の文化を育んできた米と魚は確かに地下水をくみ上げてカリフォルニアでも作ることができます。しかしそれは文化として発達することはありません。
米と魚の文化は東アジアでさまざまな形で変化し発展してきたものです。その結果が酵母による医薬品の研究・開発でもあります。それぞれの地域がそれぞれの環境や価値観に合わせて変化していくことは当然ですが、カネだけが目的の強引な変化は、人類の知恵と環境に従ってきた文化に楔(くさび)を打ち込むことです。天皇陛下をいただくわが国は米と魚の文化で成り立っています。
それぞれの多様な文化が共存していく社会こそが人間的な生活を保証することだと思います。アメリカがカネだけの社会であり続けたいならそれはそれでいいではありませんか、ただそのために日本を巻きこまないでほしい、切にそう願います。
ドジョウって米と魚の文化でこそ生きられるのではないのか、って突っ込みを入れておきます。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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