2012年5月31日 木曜日
新藤兼人監督が亡くなられた。もうず〜っと生きて活躍しておられるので、生きておられることを知らない若い世代の方もおられるのではないでしょうか。
黒澤明監督が亡くなられてもう随分経ちますが、仮にまだ存命だったとすれば「あの有名な黒澤明監督はまだ生きているんだ」という感情に似た驚きです。
人の死というのは、その方のすべての能力が一瞬にして無くなることです。ソフトの価値がより重要になっている時代には本当に残念なことですが、人の死を避けることはできません。
〜〜中日新聞5月31日引用〜〜
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2012053102000111.html
新藤兼人監督 100歳大往生 社会的テーマ貫いて49作品 2012年5月31日 紙面から
「裸の島」「午後の遺言状」などで知られる映画監督で脚本家の新藤兼人(しんどう・かねと、本名新藤兼登=しんどう・かねと)さんが29日午前9時24分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。100歳だった。広島市出身。葬儀は6月3日午前11時30分から東京・芝公園の増上寺で。喪主は次男で近代映画協会社長の新藤次郎(しんどう・じろう)氏。
02年文化勲章
独立系映画監督の草分けとして戦争や原爆をはじめ社会性の高いテーマを積極的に映画化したことで知られ、自らの体験を基に戦争に翻弄(ほんろう)される庶民の悲劇を描いた昨年の「一枚のハガキ」が遺作となった。2002年文化勲章受章。
広島市郊外で生まれ育ち、22歳で京都の新興キネマに入社し、美術の仕事の傍ら脚本を担当。溝口健二監督に師事し、松竹大船撮影所の脚本部に移るが1944年に召集され、戦後、本格的に脚本家として活動を始める。
46年の「待ちぼうけの女」(マキノ正博監督)が評価され、翌年の「安城家の舞踏会」以降は吉村公三郎監督とのコンビでヒットを連発。50年、独立プロダクションの近代映画協会を設立、吉村監督と共に「偽れる盛装」「自由学校」などをヒットさせ、51年には亡くなった妻をモデルにした「愛妻物語」で初監督を果たす。この時に主演した乙羽信子さんと後に結婚した。
原爆テーマに
原爆は生涯のテーマで、「原爆の子」「第五福竜丸」などを監督。他にも溝口監督の実像に迫った「ある映画監督の生涯」や「鬼婆」「竹山ひとり旅」「絞殺」などの秀作を手掛け、海外でも高く評価された。
95年の「午後の遺言状」では、ユーモアを交えながら老いを正面から見据え、テーマの重さをはね返すようにヒットし、日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞。同作品には妻の乙羽さんががんを押して出演、映画の完成を待つように亡くなった。
60年の「裸の島」に続き99年、「生きたい」で2度目のモスクワ国際映画祭グランプリを受賞。08年には若き日の自伝とも言える作品「石内尋常高等小学校 花は散れども」で脚本と監督を手掛け、晩年も日本映画界最高齢の現役監督として精力的に映画を撮り続けた。東京新聞夕刊に、88年7月から12月まで「放射線」を、96年1月から4月まで「この道」を連載した。
29日朝に異変
新藤監督が設立し、会長を務めている近代映画協会の関係者によると、今年に入り監督の体力は急激に落ちており、最近はほとんど寝たきりだったという。史上最年長で監督賞を受賞した2月の第54回ブルーリボン賞授賞式には気丈に車いすで登壇。史上最年少で新人賞を射止めた芦田愛菜(7)の出演オファーを快諾するなど次回作に強い意欲を示し、「大変大きな賞をいただいて感謝しています」とあいさつした。また先月22日の100歳の誕生パーティーにも出席し、豊川悦司(50)や大竹しのぶ(54)ら“まな弟子”たちの祝福に笑顔で答えていた。
29日朝に赤坂の自宅で同居している孫で映画監督の新藤風さんが、監督の異変に気付き、医師と父の次郎氏(映画プロデューサーで同協会社長)に連絡。しかし、その直後に監督は、風さんに見守られ息を引き取ったという。遺体は葬儀社内に安置されているという。
80歳山田洋次監督も悼む
山田洋次監督(80)は30日、東京・成城の東宝スタジオで「東京家族」の会見後、あらためて報道陣の取材に応じ、新藤監督の死を悼んだ。
「僕自身が仰ぎ見るような先輩がいなくなるのは本当に寂しくて、つらいこと」としたうえで、「『縮図』や『裸の島』『一枚のハガキ』などは肉声がじかにスクリーンから聞こえるような、新藤さんにしかできないような衝撃的な映画、肉声の映画」と高く評価。
また「シナリオの打ち合わせなどでも、技術者のような態度に驚いたことがある。あんなにたくさんの脚本を書いて、それが全部水準以上の力を持っていた。新藤さん以外の人にはなかなかできない」「(独立プロ系として)財政的に製作上のつらい苦しい思いをたくさんしているはず。えらい監督ですね」とも。
監督作49作だった新藤監督には「もう1本作ってほしい」との声が多かったが、山田監督も「もう1本作りましょう…となったら、すばらしいのにと思ってた。そうなってほしいと念じてた」と残念そうに話した。
柄本明「映画界の巨人だった」
「一枚のハガキ」など、新藤監督の4作品に出演した柄本明(63)が30日、東京・下北沢の本多劇場で、自身が率いる劇団「東京乾電池」の公演前に取材に応じた。
柄本は、自身が主演した「石内尋常高等小学校 花は散れども」(08年公開)の製作記念Tシャツを着て登場。大きな文字で「新藤兼人」と書かれたそのシャツを見つめながら、「映画界の巨人でしたね。映画監督でありながら、偉大なシナリオライターでした」。
「石内−」の撮影の際は、監督の健康面に配慮して夕方までに撮影を終えていたそうだが「『まだ日があるじゃないか』って撮りたがるんです。撮影に入るとお若くなるんですよね。できれば、もう1本撮っていただきたかった。103歳の世界最高齢監督マノエル・ド・オリベイラ監督を超えて欲しかったですが、大往生だと思います」と生涯現役を貫いた名匠をたたえた。
死の直前まで最高の仕事
<映画評論家の佐藤忠男さんの話> 先日、100歳の誕生パーティーでお会いし、だいぶ弱っている様子だったので心配していた。代表作といえば「裸の島」だが、最後の作品となった「一枚のハガキ」が何より素晴らしかった。100歳を目前にして、これだけの映画を撮ったことは驚くべきこと。死の直前まで最高の仕事を続け、次の世代に残した。低予算のため華やかな作品はないが、半世紀以上にもわたり、独立プロで作りたい作品だけを作り続けた人は、世界でも類がない。そういう意味では、映画作家として幸せな人生だったと思う。どうぞゆっくりお休みください。
<遺作「一枚のハガキ」などに出演した俳優豊川悦司(50)の話> すさまじくも美しき100年、その魂に少しだけ触れさせていただけたことに感謝しています。大いなる映画の巨人でした。ゆっくりお休みになられてください。ありがとうございました。
<竹中直人(56)の話> 監督と「三文役者」(2000年)のロケで瀬戸内海の生口島に行ったとき、島の人が「新藤監督、何かひと言お願い致します!」って色紙を持ってきた。なんて書くのだろう? とのぞき込むと、《生きている限り 生き抜きたい》と書いてあった。この言葉は僕の心の底にずっとずっと残っています。
<俳優の奈良岡朋子(82)の話> 新藤兼人監督の「原爆の子」に出演し、広島でのロケが今でも印象に残っています。最近も新作を撮っていらしたので、いつまでも現役でいて、亡くなることのない唯一の方だと思っていました。でも、監督はどこにいても、きっと映画を撮り続けていることだろうと思います。ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。
<監督作「生きたい」に主演した俳優三国連太郎(89)の話> ものづくりに対する映画人としての姿勢をかねがね尊敬していました。最長老の監督として最後の最後まで現場で闘い、最後にまた「一枚のハガキ」という素晴らしい映画を撮影したのはお見事でした。亡くなったのは、とても残念です。
“新藤方式”で数々の作品送り出す
亡くなった新藤兼人監督は経営的に苦しい独立プロダクションにありながら、俳優、スタッフがロケ現場で合宿し、製作費を節減して撮影する“新藤方式”で「裸の島」など数々の作品を送り出した。取り上げた題材は、戦争や貧困、犯罪劇など多岐にわたるが、晩年に至るまで人間の“生と性”を描き続けるなど、姿勢は一貫していた。
特にこだわったのが戦争と人間をめぐる問題だった。「誰かの名誉とか国家のためではなく、もっと異様に愚劣でつまらない目的のためにすべてをなげうってしまうのが戦争。本当にやってはいけない」と語り、第2次世界大戦中に召集された自身の経験も生かし、リアルな作品を生み出した。
社会派と目されたが、権力の横暴や理不尽な社会の犠牲となる人々を描きつつ、庶民のしたたかさや濃厚な男女の愛憎にもスポットを当てるなど、作品は骨太で生命力にあふれていた。「映画を作り続けたのは、食うため。次から次へと挫折が来るけれど、起き上がらないといけない」と言う反骨精神がそのまま作品に反映された。
昨年公開された「一枚のハガキ」の完成後、引退宣言をしたが、その後もシナリオ執筆を続けるなど、創作意欲は衰えることがなかった。次回作にも意欲を燃やしたが、かなわなかった。
〜〜引用終わり〜〜
亡くなられてから故人の情報を知ることは多いです。自分の親についてすら知らないことがたくさんありました。
自分が親になってわかったことはやはり子供には面と向かって話せないことがあることです。わたしのように普通の人生を送っていると子供に自慢できることもないし、かといって失敗は数えきれないほどありますが、失敗を堂々と語れる勇気はありません。
まして、自分の子供の頃の話しや学生時代に何をしていたか、など家族の前で話したことはありません。こうしてわたしが死ぬと友人・知人がお通夜や葬式にきて「昔こういうことがあってな」、「この人には助けてもらった」、「あのときにはエライ目にあった」などということが語られることになるのでしょう。
だから、自分で一生を振り返って「文章にしておく」、「自費出版で書籍にしておく」、という人もおられますが、成功者はそれで文章が成り立ちますが、失敗ばかりのわたしにはそういう勇気は出てきません。せいぜい更新されないこのブログの日記がわたしの死後に発見されることはあっても、おそらく家族も読まないのではないか、と思っています。
亡くなったことが生々しい間はひょっとして読むかも知れませんが、暫くして日常に戻った時には読まなくなっているに違いありません。わたしが自分でそうなのですから間違いありません。
その点表現者というのは「わざわざ」そういう機会を作らなくても日常的に行っている表現そのものが自分の職業ですから憧れます。
新藤兼人監督映画をたくさん見ているわけではありませんが、特に晩年の作品は見たいと思っているうちに上映期間が終わってしまっていてチャンスがありませんでした。わたしの印象では新藤監督はやや真面目すぎてエンターテイメントとしての作品作りでは成功しているとは思えません。しかし、ドキュメンタリー的な深層をえぐるという点ではすばらしい映画を作られたと思います。
永遠に映画を撮っていただきたかった、そんななか突然の死、残念でなりません。心からご冥福をお祈りします。
合掌

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