2015年1月3日(土曜日)
民法では最初に条件と期限の違いについて勉強し、条件は法律行為の効力の発生・消滅を実現するかどうかが不確実な将来の事実の成否にかからせるものであり、期限は逆に確実な将来の事実の成否にかからせるもの、と教えてもらいます。
要するに条件は不確定だけれど期限は確定している、という意味です。
ところが、時間というのは必ず到来するものであるにも拘わらず、人間は「忘れる」ために時間を意識することはあまり多くありません。そして未来のことは想像しにくい。
昔々、ある商店の開店をお手伝いしたことがあります。
開店日に関係者からお祝いに生花を贈ることが多いのですが、名古屋ではその生花をハイエナのように持ち帰ってしまう風習があります。たとえば、この「ラ・カンパニュラ」さんのブログにある画像をご覧ください。
http://akenostubasa.jugem.jp/?eid=48
1時間かからずにこうして食い荒らされ、惨めな結果となります。こうなるとお店の前に飾ってもおけず、早々に花屋さんが片付けにきます。
さて私の体験に戻ります。
お手伝いした店も生花がたくさん贈られてきました。工事関係者だけではなく、有名な作家さんからのものもありました。
作家さん、当日この開店のお祝いに駆けつけてくださる、ということだったので風習に抗い贈り主の作家さんが帰った後でお取りください、と注意書きをしてもらったところ、その前で並び始めたのです。実はこのハイエナ軍団、実は高齢者だったのです。若者は一人もいません。その間3時間余り、ず〜っと、店の前で並んでいました。
このとき、「高齢者には時間は無限なんだ」と認識を改めました。生きてきた時間の長さを覚えていないから、生花を手に入れるために3時間も待てるのだなあ、と。
高齢者の持ち時間は若者の持ち時間と比較すれば短い、なのに3時間をムダとも思えることに費やす。いや、それはムダではないのかも知れない。なぜなら家にいても何も得られないが、ここで3時間の時間を消費すれば生花が手に入る。
どちらが合理的な判断なのか(?)
このように時間は必ずやってくるにも拘わらず、過去の時間を忘れ、未来の時間を想像できないため、人それぞれ感じ方が異なるもののようです。
311の後、全国で地震や火山噴火の恐怖が数字で表されるようになりました。
たとえば、「南海トラフ大地震の起きる確率は30年で70%」と言われていますが、今日70%が現実のものになるかも知れないし、明日現実になるかも知れない・・・云々、30年後に現実のものになるかも知れない。
つまり、毎年2.3%の確率で起きるわけではありません(70%÷30年=2.3%)。でも多くの人たちは今日明日起きるわけではない、30年後に70%が現実となると漠然と考え、そのうちに忘れてしまうのでしょう。
でも、忘れないことが必要なのです、絶対に。
では、過去を忘れないことができるのか(?)未来をいつも想像できるのか(?)
明治以降、私たち日本人は西洋合理主義を取り入れ中央集権国家づくりに邁進してきました。その結果中世の国王ですらできなかった物質的に豊かな生活ができるようになりました。これだけ豊かになったといっても、私たちは何か日々の暮らしや仕事に喪失感があります。
光と同じだけの影がある、物質的豊かさが光なら、つながりの喪失は影です。日々の暮らしのなかで幸福を実感できない、喪失感が支配しているのは、地域や自然や人とのつながりを失くした社会だから、だと思います。
今、アドラーが注目されていますが、アドラーは人の役に立つことが自己肯定感の本質だと言います。誰かの役に立っていることを自覚できることが幸福感の本質だとすれば、人とのつながりを持つことが不可欠となります。
家族と自分、地域と自分、お客様と自分、同じ志を持つ人たちと自分・・・、このような人とのつながりは「他の人たちに役立っている自分」を自覚でき、しかも成長させてくれる一番重要なキーワードだと思います。
今年一年、宜しくお願いします。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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