「体位は正常位だけ、と決める社会を望みますか(?)」
政治
2015年2月11日(水曜日)建国記念日
下ネタの題名で申し訳ありません。
どこの国も為政者は都合の悪いことは抑圧しようとするものです。資本主義国でも社会主義国でも同じです。つまり国家にとって言論の自由はご都合主義で変わるものです。
中国では「反日」を掲げるデモや集会は許可されるが、政府批判を行うデモ・集会は一切許可されません。北朝鮮ではそもそも知ることも許されず、自分の意見を言うだけで強制収容所行きです。
同時に70数年前の日本では「君主たる天皇陛下は法人たる国家の機関の最高の長とした天皇機関説すら不敬罪だとされ後には教えることすら禁止され排斥されました(昭和天皇陛下ご自身は天皇機関説を支持していました)。天皇の御意志によるとする戦争を続行・鼓舞するに都合が悪いからです。
このような動きが出始めると社会全体に広がり言論は完全に制約されます。
まず、KY(空気が読めない)の人たちは逮捕されたり刑事罰の対象となるでしょうし、空気の読める人たちはそれを避けるため言論を自粛します。
ネットでは正論を書いても炎上という現象があります。顔の見えない相手から脅迫を受けることもあるといいます。それはIPアドレスなどの証拠を取って捜査機関に告訴すればいいわけですが当事者にとっての言論は委縮させられます。
また、放送局・新聞社・雑誌社というメディアが自粛すれば、そこに登場できる言論人は当然制約を受けます。最近ではNHKが政府の意向に沿う情報しか流さない、という姿勢がはっきりしています。
こうなるとマスメディアを通じた情報はアテにできないどころか、害悪です。
では、なぜ言論は規制されてはいけないのか(?)
人間はもともと喋る・意見を表明することによって自分の存在感を示すものですから、喋らずにいること・意見を表明できないことは苦痛です。だから聞くことに徹することのできる弁護士さんは優秀なのです。
もう一つは社会にとっての効用です。単一の言論しか許されない社会はおかしいのです。中国や北朝鮮をおかしいと思いませんか(?)
アメリカにもダーウィンの進化論を神の意思でこの世が作られたという聖書と矛盾するからという理由で教育することを禁止している州があるといいます(ワシントンDCコロンビア地区法では正常位以外のたとえば後背位を動物のようなセックスであることを理由に禁止しているらしいです)。誰が正常位かどうかを見たり判定したりするのかわかりませんし、ワシントンDC以外ではなぜ許されるのか根拠がわかりませんが、これも日本人から見ればおかしいでしょう。
つまり人間は他の人間と異なっていることを認められなければ生きていけないわけです。
最近、多様性のある社会・組織という意味でダイバーシティという言葉がよくつかわれますがDIVERSITYの語源はDIVERSEであり他のものとは違う・他のものとは異なる、という意味です。つまり異なる意見や価値観をもっておりそれが尊重される社会というのが人間中心の社会です。
〜〜毎日JP引用〜〜
http://mainichi.jp/select/news/20150206k0000m040145000c.html
NHK会長:慰安婦問題番組「政府スタンスで放送考える」
毎日新聞 2015年02月05日 22時53分(最終更新 02月05日 23時00分)
NHKの籾井勝人会長は5日の定例記者会見で、戦後70年にあたり従軍慰安婦問題について番組で取り上げるかを問われ「政府の正式なスタンスがまだ見えないので、放送するのが妥当かどうかは慎重に考えないといけない」と述べ、政府が8月にも発表する「戦後70年談話」の行方を見て判断する意向を示した。自律的な放送を放棄するかのような発言は批判を呼びそうだ。
また従軍慰安婦に関する政府見解は見直す余地があるかを聞かれ、「その手の質問には答えを控える」と述べた。さらに、答えない理由について問われると「しゃべったら、大騒動になる」とコメントを避けた。【望月麻紀】
〜〜引用終わり〜〜
こういう政府や組織のトップに都合のいい人たちには言論の自由があり、都合の悪いことを言う人たちには言論の自由がない、という社会や組織は気持ちが悪いです。
議論をして議論をしてさらに議論をして、どこが違うのか、それは妥協できる方法はないのか、歩み寄れない部分はどこなのか、を決めるのが民主主義の手続きです。
そもそも家庭でも仕事でも、日々発生する問題に対してお互いに調整しあいながらやっていることです。そこで、オマエは何も言うな、では調整ができません。
保育園のお迎え時間に都合が悪いときに、予定を変更できる方が変更してお迎えに行くか、おじいちゃん・おばあちゃんにお願いをしているご夫婦ばかりだと思います。
違いを認め合う社会や組織では、みんな全員が、何事も100%満足ということはありません。けれども、できるだけ納得のできる結論を得るために努力をする必要があります。
それは政府や権力者に反対する人たちの言論を封殺してできることではありません。お互いの違いを理解したうえで、それが失敗すれば正直に失敗を認め、反省することが生きやすい社会・組織だと思います。
「政権批判を自粛する空気が社会やマスメディアに広がるのを危惧する」 作家や映画監督、ジャーナリストら言論人が「声明」を発表
http://blogos.com/article/105276/
〜〜引用始め〜〜
翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明
http://ref-info.com/wp-content/uploads/2015/02/%E3%80%8C%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E6%A7%8B%E7%AF%89%E3%81%AB%E6%8A%97%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A8%80%E8%AB%96%E4%BA%BA%E3%80%81%E5%A0%B1%E9%81%93%E4%BA%BA%E3%80%81%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A3%B0%E6%98%8E%E3%80%8D3.pdf
私たちは、[ISIL]と称する組織・集団による卑劣極まりない邦人人質惨殺事件を強く非難し、抗議するものである。また、この憎しみと暴力の連鎖の帰結として起きた事件が、さらなる憎しみや暴力の引き金となることを恐れている。
同時に、事件発生以来、現政権の施策・行動を批判することを自粛する空気が国会議員、マスメディアから日本社会までをも支配しつつあることに、重大な危惧を覚えざるを得ない。
「人命尊重を第一に考えるなら、政権の足を引っ張るような行為はしてはならない」
「いま政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」
「このような非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」
そのような理屈で、政権批判を非難する声も聞こえる。
だが、こうした理屈には重大な問題が潜んでいる。
まず、実際の日本政府の行動や施策が、必ずしも人質の解放に寄与するものとは限らず、人質の命を危うくすることすらあり得るということだ。であるならば、政府の行動や施策は、主権者や国会議員(立法府)やマスメディアによって常に監視・精査・検証され、批判されるべき事があれば批判されるのは当然の事であろう。
また、「非常時」であることを理由に政権批判を自粛すべきだという理屈を認めてしまうなら、原発事故や大震災などを含めあらゆる「非常時」に政権批判をすることができなくなってしまう。たとえば、日本が他国と交戦状態に入ったときなどにも、「今、政権を批判すれば、敵を利するだけ」「非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」という理屈を認めざるを得なくなり、結果的に「翼賛体制」の構築に寄与することになるだろう。
しかし、そうなってしまっては、他国を侵略し日本を焼け野原にした戦時体制とまったく同じではないか?70数年前もこうして「物言えぬ空気」が作られ、私たちの国は破滅へ向かったのではなかったか?
実際、テレビで政権批判をすると、発言者や局に対してネットなどを通じて「糾弾」の動きが起こり、現場の人々に圧力がかかっている。
問題なのは、政権批判を自粛ないし非難する人々に、自らがすでに「翼賛体制」の一部になりつつあるとの自覚が薄いようにみえることである。彼らは自らの行動を「常識的」で「大人」の対応だと信じているようだが、本当にそうであろうか?私たちは、今こそ想像力を働かせ、歴史を振り返り、過去と未来に照らし合わせて自らの行動を検証し直す必要があるのではないだろうか?
日本国憲法第21条には、次のように記されている。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
日本国憲法第12条には、次のようにも記されている。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」
私たちは、この日本国憲法の精神を支持し尊重する。そしてこの精神は、「非常時」であるときにこそ、手厚く守られ尊重されなければならないと考えている。
なぜなら「非常時」にこそ、問題の解決のためには、様々な発想や見方、考え方が必要とされるからである。
私たち言論・表現活動に携わる者は、政権批判の「自粛」という悪しき流れに身をゆだねず、この流れを堰き止めようと考える。誰が、どの党が政権を担おうと、自身の良心にのみ従い、批判すべきだと感じ、考えることがあれば、今後も、臆さずに書き、話し、描くことを宣言する。
2015年2月9日
〜〜引用終わり〜〜
最後までお読みいただきありがとうございます。

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