2010年8月12日 木曜日
車を走らせていても世間はお盆休みで、道路の空いていること、快適です。愛知県庁の駐車場もガラガラ、周囲の路上駐車もガラガラ、気持ちがいいです。
たとえば、日本にはイタリアやフランスの2倍の人口がいますので、これらの国並みの人口になれば、狭い日本でも快適に暮らせるわけです。お盆の期間中の名古屋市内はこのことを疑似体験できます。
名古屋の長者町といえば、かっては運送屋のトラックも卸に買い物に来た小売屋さんの車も、卸業者の従業員の販売促進車も、ぐちゃぐちゃで、歩道に車が駐車されているのは当たり前、二重駐車も当たり前に行われていましたが、盆・正月になれば、それらの車はどこかへ消え、スッキリした街になったものです。
「ほう、長者町の道路はこんなに広かったのか」と感心するほどです。
不景気の影響で店がバタバタと閉店し、潰れ、テナントが風俗に変わってから名古屋の繊維問屋街、長者町の喧騒は、なくなったように感じます。
作家故城山三郎氏はこの喧騒の街で生まれた作家です。
なぜかわかりませんが、アジア諸国はヨーロッパ諸国と比較すると、人口が多いです(多分)。12億人とも15億人とも言われる中国、12億人のインドを代表として世界ではずば抜けて多い。
だから、日本の街中の喧騒を見ていると、どうしても人間がうじゃうじゃいる中国やインドの雰囲気を感じてしまいます。
人口が多すぎるので減ればいい、わたしは日本国の人口が減ることには、危機だとは考えていません。減れば減ったで、これから残った日本人が豊かに暮らせればそれでいいではないか。
外国からの労働力移民を進めて無理に経済成長(量的拡大)を進めなくてもいいのではないか、と思うのです。人種のるつぼといわれるアメリカのような、経済的成功を目指す移民たちにより自然に形成された歴史の薄い一体感の国を作るべきではない、日本には2000年以上の歴史や伝統のなかで培ってきた有形・無形の文化があり、それを守るべきだと思うからです。ここにこそ日本人が求める一体感があります。
確かに人口が多いということは1個売れるところが、2個・3個と売れるわけなので生産性は高まり、経済成長もあります。でもそれは、あくまでのカネの問題であり、人間の暮らしやすさの指標ではない、と考えるのです。
それより、世界が必要とするものを日本の民間が考えて、政府がそれを後押しし、世界に売っていく、このような情報優先の経済を作り上げれば、日本に輸入しなければならない石油やその他の資源を購入する以上のカネと信用ができます。
どうも、日本という国じたいが、経済成長というドグマに冒され、そこからさらに進んで日本人の生活優先という目標を打ち立てられずにいる、そのように感じます。
日本は明治以来ずっと、欧米に追い付け・追い越せとやってきた。そして少なくとも経済的には世界第2位の経済大国になりました。特に第2次世界大戦後の日本の経済発展は猛スピードで世界を駆け抜けたわけです。そこにはアメリカの協力もあった。
その結果である資本の蓄積を不動産や株式やゴルフ会員権に投資してバブルを生み、全国民が熱狂しました。そして国家の税収は大きく伸びました。あのカネは本当は日本の新しい発展のための研究開発のために使うべきだったのです。
夢から覚めれば、「あったはずのカネは価値のない不動産や株券やゴルフ会員権に変わっており、また借金だけが残った」のです。
欧米に追い付け・追い越せとカネ儲けに一生懸命になり、日本を恐れたアメリカ・イギリスなどの連合国の怒りを買った第2次世界大戦、戦後のカネの蓄積をチャラにしたバブル経済とバブル崩壊。
ここら辺で日本人は「人間中心主義」「人間の生活優先主義」の価値観を確立していくべきであり、そのように変化しなければいけないのだと思う、日本国の政治や行政を利権にしてカネ儲けをしてきた政党や政治家や行政は退場させ、新しい「人間中心主義」「人間の生活優先主義」を確立するリーダーシップをこそ国民は求めているのではないでしょうか。
カネ優先ではない人間生活優先。
これこそが、資本主義が足踏みをするこれから20年に日本人が考えて結論を出すべきことのように感じます。
カネ中心から人間の生活中心へ、というと必ず、カネがなきゃ人間生きていけない、カネこそが大事だ、という主張がされます。当然です。
わたしは、カネ儲けは必要だし、求めなければいけない価値だけれど、日本の今の時代はカネ儲けが行き過ぎた資本主義になっているのではないか、と思っています。だから今アンチテーゼとしての人間の生活中心社会を考えるべきだと思うのです。
かってわたしは靖国神社に否定的だったのですが、今は、靖国「神社」には国の指導者は参拝すべきだと考えています。
戦後GHQの指令で「神社」というものをすべて宗教法人としたことが間違いであり、特に靖国「神社」を一つの宗教法人にしたことが誤りだからです。できれば、宗教ではなく、国家のために命を散らした多くの先祖を祀る施設に戻すべきだと考えています。宗教を超えたものとして。
それこそが、人間中心の社会への目標のように感じます。日本人及び日本のリナシタ、すでに始まっているのかも知れません。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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