2018年2月「森の風の生活」今月のテーマ「いのちが静まる」
2月の聖書の言葉「隣人を自分のように愛しなさい。これにまさる掟はほかにない。」マルコによる福音書12章31節
実はこれは第二の掟で第一の掟は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。」で、続いて「第二の掟」として有名なこの言葉があって、「この二つにまさる掟はほかにない」となります。少し省略をしました。「神を愛し、隣人を愛する」これにまさる掟はないと言われています。これにまさる法はないと言われます。
長男が3年生だった時の先生が忘れ物をしたときに反省カードのようなものを作っていました。自分で「もう忘れ物はしません」と書かせて、鳥居のマークに「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」と印刷してありました。先生は冗談で書かれていたのだと思うのですが、これはまずいと思って申し上げたことがありました。なぜなら、見えないもの(神)を大切にできない人は目に見えない人の心を大切にはできないと思ったからです。先生にとってはただのふざけでした。
案の定、そのクラスの女の子が「ばい菌」と言われ、からかいの対象となって、全校に広がり、誰も口をきいてくれない、弟たちにも影響が及ぶほどのことが起きました。でも、先生はそのことに全く気が付いていませんでした。子ども達にとって「ばい菌」と言ってからかうことはただのふざけです。同じことが起きているんですね。クラス懇談会が開かれ、我が家でも息子と話し、表面的にはそんなことを言うことはなくなりました。
私はこの出来事をきっかけにこの子やお母さんとお付き合いをするようになりました。そして、とても大切なことをいくつもいくつも学ばせてもらいました。お母さんは「私より家事が出来て、私より育児が上手な人がいたら、そっくりそのまま私と代わってもらってもいい」と断言しておられました。それほど、自分は価値のない人間だと思っておられたのです。一緒にキャンプに行くようになりました。すると、「私って火を焚くのが好きな人なんだ!」と言われ、七輪と炭を買ってきて庭で火を焚き始められました。火を焚くだけではもったいない、やかんでお湯を沸かそう、コーヒーを入れてみた、カレーを作ってみた…と自分のやりたいことを次々とやってみて、ある時「かなりさん、私まだ自分には自信がないけれど、この子達の母親は私しかいない。誰にもできないと思えるようになったわ。」と言われる頃に、いじめの空気はなくなりつつありました。(表面ではなくなっても、空気はあるのです)そして女の子に、この頃学校でどう?と聞くと「う〜ん、縁側においてあるバターがじんわりと溶けていく感じかな。」と言ったそうです。確か4年生になった頃だと思います。この子の感性に驚かされました。お母さんは「この子がばい菌だのなんだの言われないように非の打ちどころのない様にしてって思っていたのだけれど、そんなことではなかったんだね。それはこの子のありのままを受け入れていないということで、ますます悪循環を作っていたということね。私はスキンシップは大切だから膝に抱こうと思っていたけれど、今は愛おしいから抱こうと思えるようになった。」とも言われました。
第一掟、第二の掟と言われていますが、それは全部繋がっていて、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」と「自分を愛すること」は一つのことです。「ことです」とは以前は言い切れず、自分を愛することってどういうこと?隣人を愛するって・・・?と分からないことばかりでした。頭では分かったつもりでいても心は違うのです。正直なところいまだに愛について分かったとは言えません。なんと愛の冷えた人間なのだ…と嘆いています。
でも、「愛」が「愛されている」から始まることは分かります。「私たちは愛されている」。どの人も実感することが無くても、今ここに生きている事実は「愛されている」ということなんですね。「まず、神が私たちを愛してくださった」このことを実感したいのです。多くの人達から愛され赦されていると実感したいです。
子ども達は昨日、たまたま両クラスともお料理をしました。なかやさんは栗ご飯を炊きました。お味噌汁を造りました。ニワトリさんの卵で卵焼きを作りました。やすはるさんは冬イチゴケーキを作りました。栗や冬イチゴ、これまで出会ったベリーたちを取ってありました。ケーキにはニワトリの卵を頂きました。お米は田んぼで育ちました。おみそ汁の具はお母さんたちの重ね煮。どれをとっても命を感じます。子ども達は「草や花やいのちをありがとう」と言いながら「おいしい美味しい」と喜んでいただきました。愛されていることを喜びながら残る3学期を大切に歩みましょう。