年主題聖句「その人は流れのほとりに植えられた木」詩編1編:3節
5月のテーマ「見つけたよ」
聖書の言葉「初めに、神は天地を創造された」創世記1章1節
このことが全ての始まりです。
全ての起点です。起点・・事の起こり・・は大変大切なことです。
日本にも神話がありますが、聖書はイスラエル人の先祖が「人間とは何ものか」「何故、私はここに存在しているのか」その意味を神との関係で語り伝えています。聖書は世界中で読まれ、人々を動かし続けています。
どのレベルで言葉を読み、受け止めるかはその人次第です。私はなるべく深いところで読み取っていきたいと思います。深いところに進んで行くと、仏教とも出会い、様々な人の言葉とも出会っていくことが出来ます。そこで、「森の風」の保育理念を構築し続けていきたいと思っている次第です。
さて、森の風の出発点、それは「何も持っていなかった」です。全て借り物。全て頂きもの。今もそうです。しかし、このことを通して私たちは本当に多くのことを学びました。
例えば、どの道もこれまでの人々が大切にして作り上げてきたもの。「みんなで良くしてきたんやで」。千草の中の道はもちろん在所の人々の生活道路です。
例えば、田んぼは昔の人達が自分の力で木を伐り、開墾して作り上げてきたもの。水を引いて(呼んで)きて水路(みずみち)を大切にし、下の田んぼのことも考えながら水を使う。そこに耕作している人たちと協力して道路も良くする。そうしなければ自分の米作りもうまくいきません。「俺ら、口がついとるんやで、人とのコミュニケーション、大事にせなあかん。これを大事にできんで、なんでこいつら(米)の気持ちが分かるか?」「絆きずなっていうけどさ、そんなん俺ら前からあったわさ」「お前ら、近所回し(畑の隣同士)大切にせなあかん。種や苗、もらったりやったりしてな。」(叱られているわけではありません。そんな言い回しなのです。)
貸してもらったので、「何も持っていなかった」ので、今そこにあるものが「当たり前」としてそこに在るのではないということを重々教えてもらいました。
そして、それは実は全てのことに通じるのですね。畑に種を蒔く、すると芽が出てちゃんと大根なり、人参なりが育ってきます。その時にどんな心持ちで収穫するでしょうか?
随分前ですが、まるでお店で物を買ってくるのと同じ心持ちを畑で感じたことがあります。「当たり前」を感じました。そうすると、もうそこには有り難さや不思議を感じる心は無いのです。私たちのできることは種を蒔くだけ。種を大根にすることはできないのです。お日様の光と熱、適度の雨、空気の流れ、土の中の見えない微生物たちの働きに育てられて、種は大根に成長します。不思議な出来事です。そのような事への畏敬の念が無くなると畑の仕事は単なる作業になって子ども達にやらせることになります。
4月の聖書の言葉のような「喜び楽しんで」では無くなってしまいます。
例えば、安全管理についてスタッフ間で話をすることがあります。どんな時に怪我をするか?どんな場面で事故が起きるか?突き詰めて考えていくと、「我が物顔になっている」と事故が起きるのだというところに私たちは行きつきました。林の中に入る、山へ行く、そこにはそこに棲んでいる生き物達がいます。そして、ヘビでもハチでも嫌がることをしたら、彼らは自分を守ろうとして攻撃してくるかもしれません。どこへ向かってもやはり「我が物顔」は危険なのです。「お邪魔します」と入れていただくのです。
さて、事の始まりは「神は天と地を創造された」でした。その中に生かされている私たちにとって、「当たり前」はありません。すべてが有り難い(有り得ない)ことではありませんか!!特にこの季節に思います。四季の美しい日本に生を受けたことを本当に有り難いと思います。
5月のテーマは「見つけたよ」です。
子ども達はそういう意味で何にも持っていません。ですから、全てのものが新鮮でキラキラしていて宝物です。どれだけ多くの宝物を見つけていくでしょうか。楽しみですね。美しさは芸術への、不思議さは科学や宗教心への種となっていくことでしょう。私たちは子ども達の?や!をどれだけ心を動かされながら見つけることが出来るでしょうか。楽しみに過ごしましょう。