2月の聖書の言葉「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいてくださいます。」コリントの信徒への手紙U13章11節
そうかそうではないのか・・・と聖書を読んでいて思います。
「平和の神が何とかしてくれるから、あなた方は平和になるよ」
ではないんですね。「平和に過ごしなさい。
そうすれば愛と平和の神が共にいてくださる。」というのです。
棚からぼた餅のように降ってくるのではないんですね。
それでは信心や信仰なんて正月に手を合わせておけばいいくらいのことで、後は結局自分の努力ではないか・・と思ってしまいそうです。
でも、そういうことではないのですね。
心の中を怒りでいっぱいにしながら「平和にしろ」と言ったって
自分の心の中が平和になる
はずはないのです。ではここで言われる平和は
どうして訪れるのでしょうか。
この手紙はパウロの涙の手紙と言われるものでした。
なぜかと言うとコリントの教会の中にはいさかいがあり、
分裂状態でした。パウロ自身も健康を害していました。
逆境の中で弱さの中で祈りました。
深い祈りの中でパウロはイエスの声を聞きました。
「恵みは充分である。力は弱さの中でこそ発揮される」と。
そしてパウロは言います。「私は弱いときにこそ強い」
自分自身の弱さや愚かさに打ちひしがれているときに見える地平は赦しや調和や愛です。
その中に平和を見出せるのです。
そこで本当の自分に出会い生きる力を得ることが出来るのです。
弱さに打ちひしがれているときに一番近くに
平和の神が共にいてくださったことが判るのです。
2月のテーマ「育ちあう仲間」
重たい大きな氷を見つけた女の子にすぐに駆け寄り、
「手伝ったろか?」と手を貸す姿。
クラスがもう整列して進み始めるの(他ごとをしていて)準備が出来ず、「行くよ~」と進み始められると「わ〜ん」と泣いてしまった子に「一緒にいったるわ」と励ます姿。
人の困っていることに無関心ではない姿はあちらこちらで見かけます。どのクラスもみんな兄弟のように喧嘩をし、仲直りをし、本当に良いグループになってきました。
先日の醤油絞りで搾り士の岩崎さんが「今日は醤油を絞る仕事をここでしますが、あちらで遊びたい子は遊び、一緒に仕事がしたい子はし、それぞれが自由にまるで微生物が自由に動いているようにやりましょう。」と私の傍に来て仰いました。「おお、それはいつもここで子ども達はそのようにしています」と言いたいところをなぜか私は言葉を呑んで「はい」とだけ答えました。そして、いつものように始めはちゃんと挨拶をして、一日が始まりました。「もろ味」と言うものにようちえん全体の子達が関わっていたわけではないので、関心も様々だったと思いますが、やはりあの醤油を絞る「船」の存在や岩崎さんのにじみ出る人柄と何より「味見をして良い」ということが子ども達を釘付けにしました。徐々に味が変わっていくのを何度も何度もなめてなめて・・飲んで?確かめていました。
私はその周辺で遊んでいる子ども達の姿に時々目を留めていました。
「保育のさんま」という言葉があります。
たっぷり遊べる時間、主体的な活動を大胆に展開できる空間、
育ちあう仲間の三つの間です。
それがあって始めて子ども達は育っていくのです。
まさにあのしぜん学校の空間はそのような活動を
こども達に保証できるのです。
大人が醤油を絞る仕事を火起こしから始めて
色々な役割を担っている場でこども達も興味に任せてやってきたり、
自分達で遊びを作り出したり本当に思い思いに
仰る通り微生物が自由に動いているように自由に過ごしました。
数人のグループで木に登りながら「○○ごっこ」があちらこちらにありました。リスが食べた後の松ぼっくり「エビフライ」を手にいっぱい持ってきて見せてくれる子も。手に手に朽ちた木の不思議な形を何かに見立ててその場限りの遊びをしている子達。延々と火に向きあっている子達。ハンカチ落しを誘い合って自分達で始めた子達。どんなことでもいいのです。自分達でその時思いついたことをやってみる・・・その仲間を見つける・・・うまく行かないこともあるでしょう、いやな思いもすることでしょう。でもそこに仲間がいるということが何より素晴らしいことです。
森の風ようちえんの子達の育ちは差し引きしない、媚びない、手加減をしないそのままの姿の自然がこども達の育ちを保障してくれるのだと思っています。だから本当の子どもが育っているのだと「誇り」に思っています。
(自慢の子でしょ,とある子が私に囁きました。そうだよ。みんな自慢の子だよ。)