2月の聖書の言葉
「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」コリントの信徒への手紙T12章31節
コリントはギリシャの都市国家でした。
そこにいる信徒達への手紙です。
コリントの教会には分裂が起こっていました。
これを書いたパウロはあなた方は「一つの体」で、
一つ一つの部分からなっていて「一つの部分が苦しめば、
全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、
全ての部分が共に喜ぶのです。」と言い、
「各々に与えられている賜物、教える力、管理する力、
援助する力・・・皆違う・・
それよりももっと大きな賜物を求めなさい」と勧めているのです。
ではその大きな賜物とはなんでしょうか。
それは続く13章で高らかに述べられ
「愛は忍耐深い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を尊ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える・・・信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。愛を追い求めなさい。」
別のところでは「愛は全てを完全に結ぶ帯」と言われます。
愛を越えるルールはないと言われます。
しかし私達はいつどんなときも完璧ではありません。
自分自身を鏡に映すようにこのような聖書の言葉の前に立つと
自分の姿が映し出されます。私達にはそれぞれに違った賜物が
与えられていてそれが豊かに用いられること願います。
しかしそれが本当に生かされるのは愛に根ざし、
愛によって形作られてこそと聖書は教えています。
今月のテーマ「気付きあう」
一年間がとても早く感じますが、
積み重ねてきた一日一日を振り返ると四月や五月のことが
思い出せないくらい遠い昔の事のようです。
4月、新しい世界に飛び込んだもり・はなさんも、
自分のことでいっぱいいっぱいだったおそらさんも、
途中で担任が変わったおひさまさんも毎日毎日を一生懸命生きてきました。いま、おひさまさん達はふざけることを楽しんでいます。子どもらしく何かから解放されたような、そしてこの仲間の中にいることが楽しい!という感じです。おそらさん達は年中児らしくファンタジーの中にいます。どこからでもどんなときも何かになってどこかの世界に行ってしまいます。もりさん達はそのまんま生きていることが幸せですね。どのクラスもそのクラスなりのしっくりとした感覚の中にいます。それはこれまで毎日毎日、一緒に歩き、一緒に食べ、一緒に驚き、・・・共に経験し、乗り越えてきた中で得ている感覚なのだと思います。
年長さんが鹿の命を頂いたことが飲み込めないでざわざわした気持ちのある方もいらっしゃるかもしれません。私自身もそのこと自体に大きなエネルギーを感じて疲れます。これは現代人となってしまった性(さが)かもしれません。
アパッチさんの笛の音やリズムを浴びたときに何かが払われていった、
そんな感じがして、その後は温泉に入ったような気分になったのですが、
皆さんはいかがだったのでしょうか。
原始に近い音やリズム。
子ども達はおそらく今でもその中にいるのではないかしら・・と思います。昨日、「ススキ山」で自分達の隠れ家の中でご飯を食べていたおそらさんの二人は「ここはええで、山が見えるし、鳥の鳴き声も聞こえる」と言って枯れススキや木に囲まれた小さな空間を楽しんでいました。その後、「鹿の角山」(鹿や猪しか入らない)を歩いたのですが、しぜん学校にいるより野生を呼び覚まされる感じがします。現代のすぐに変化してしまうものを一緒に体験するより、より原始に近い変わらないものを共に体験する方がより深いところでの繋がりや一体感を持つことが出来るのではないかと思うのです。
冬の厳しい寒さの中でも、この季節でなければ出来ない体験を一緒に味わいながら、一つの家族のようにそれぞれのクラスがしっくりとした感覚を深めていけますように。どんな中にも隠されている楽しさや喜びや恵みに気付きあいながら。