6月の聖書の言葉「見よ、それは極めて良かった。」創世記1:31
旧約聖書の冒頭には世界の始まりの物語が描かれています。
人が何故存在しているのか、人とは何者か、男と女の関係とは、
また、人間と他の生き物の関係は、そして人には何故罪があるのか・・・。
私自身はこの創世記の物語の中に教育の由って持って立つところを見出しています。
神様は全てのものをお造りになった後に人間を創られます。
しかも「神に似せて」人を創られたとあります。
「そして彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・全地に生える、種を持つ草と種をもつ実をつける木を、全てあなた達に与えよう。それがあなた達の食べ物となる。・・・』神はお造りになったものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
全てあなた達に与えようとはなんという祝福でしょうか。そして地を従わせよとはなんという大きな責任でしょうか。地球上に限りない生きものがいて、その繋がりの中で、その一部として生かされている人間に与えられた責任は「自分勝手」に生きることではなく、感謝し、共に生きる仲間たちを大切にして生きるということだと分かります。
福島で米作りができない農家の方が、田に水を入れ始められた。お米が作れないのにどうして水を引くのかと聞かれたら、「今年もツバメが来るだろ」と言われたと言うのです。そのような行為の前に言葉を失ってしまいます。
また、いつも思い出すのがアウシュビッツからの生還者であるX,E,フランクル(精神科医)の本の中に描かれているユダヤ人の姿です。「丁度頂が夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれのうっとり輝いている顔を誰かが見たとしたら、その人はそれが、いわばすでにその生涯を片付けられてしまっている人間の顔とは決して信じ得なかっただろう。・・・夕陽を眺め、数分の沈黙の後、『世界ってどうしてこう綺麗なんだろう』という声が輸送車の中で聞こえた。」そのような状況の中でも人間としての尊厳を失わないでいることが出来ると言うことを人間の希望として書いています。少し重たい話になりましたが、祝福として与えられた「自然」という大きな摂理の中に生かされている私達であることを今日も忘れずに。
今月のテーマ「関心」
キリスト教保育誌の中の今月のねがいのひとつは
「神様の創られた自然の不思議さに目を向ける」です。
東洋英和女学院大学付属幼稚園の先生が書かれています。
一度見学に行ったことがあるのですが、
園庭は土の園庭で都会とは思えない大きな木が茂っていて、
子ども達が泥んこ遊びをしていました。
都会から保育を考えると「目を向ける」という表現になるのだな・・・当然のことと思いながら、私たちの置かれている環境のありがたさをしみじみ思いました。私達のところでは目を向けなくてもあちらから飛び込んでくるという感じですもんね。
今、写真展の準備もしてもらっていますが、
保育の中の写真を観ていると「子ども達の手」という写真集を作りたいぐらいです。子ども達の手の中にある虫達やかえるや花や草、石ころ、木々・・それを掴んでいる子ども達の脳の中では何が起きているのでしょうか・・・子ども達の笑顔、真剣な眼差し、得意なげな顔。
これからアマガエルが上陸してきます。駐車場からやすはるさんのお家までの間で何匹のアマガエルの赤ちゃんがみんなの手の中に入るのでしょう・・。
カタツムリも雨の日の散歩では必ず子ども達の目に留まります。
森の中に入れば必ず尺取虫がブラ〜ンとぶら下がっています。葉っぱから落ちてしまうのでしょうかね。でもちゃんと糸でぶら下がれるようになっています。
先日、ナナフシの赤ちゃんに会いました。たった2センチほどの淡茶色の赤ちゃんですが、ちゃんとナナフシの格好をしていて、怖いと枝の真似をするのです。カマキリの赤ちゃんもそうですね。
オトシブミも見つけます。オトシブミを知らない方は調べてみて下さい。お父さんとお母さんの愛と知恵に感動します。ハイイロチョッキリのすご技は感動物です。
田んぼでは何種類かのトンボも飛び始めました。
6月はそんな生きものたちが溢れてきてシャワーのように不思議さが降ってきます。そのシャワーの中に子ども達が居られるなんて、なんという幸せでしょうか。
今日、何回いのちを感じるでしょうか、何回手に触れるでしょうか。
そして、今は知るより感じることが大切なのです。
「いのち」を感じることが大切なのです。
子ども達と一緒に眺めて驚いて感心して喜んで楽しんで過ごしましょうね。