2016/8/16
その1・修正人智学は必要か?食について 21世紀の人智学
私はドイツで働いていた頃から、ドイツや他のヨーロッパの国の人智学のあり方に疑問を抱いてきた。
ルドルフ・シュタイナーは、完全なる自由を目標としたのに、1978年にドイツに留学した頃から、人智学運動の「ドグマ」や「戒律」が目につくようになった。
さらに結構多くのドイツの人智学徒が人智学を宗教の代替として見ていることが気になった。
女性を例にすると、化粧をすると、あるいは、お洒落をすると何か「白い目」で見られる。ある日本の友人が言っていたが、「まだそんなことしてるの?」的な「白い目」であるらしい。
食の無頓着さも気になった。バイオダイナッミク農法ならそれで良い。味付けや、そもそも「料理」などどうでもいい。と言う人がかなりいた。健康「オタク」なのだけど、料理はどうでもいい、と言った具合だ。
それから、ヨーロッパの人智学徒の「大豆」嫌悪は甚だしい。大豆は「知的」にする(知的というコトバはネガティブに使われることがほとんどだ)だから唯物的な傾向が強まる、等という。だから豆腐、味噌、醤油等に対する批判も後を絶たない。
食に関して言えば、我々東洋人は、欧米人とはまったく異なる「肉体」を持っている。「生命体・エーテル体」もかなり異なる。「アストラル体」になると共通項は増えるが、それでも同じではない。「自我」としては同じなのだろうが、そこに行き着く道程は長い。
大豆文化は、東アジアを中心として発達した文化だ。それは、東アジアの人間の肉体に適したものだと言えよう。
豚肉を主流とする一般的ドイツ人の食文化とは異なる。そして、乳製品の摂取量は凄まじいものだ。
だから、東アジアの人間として見たとき、ルドルフ・シュタイナーの食についての言説は適当ではない場合が多いと思う。
「飲食」のタブーが出来たとたんに、その世界は狭まる。そして、偏狭となる。
昨晩、京都の「おぼろ豆腐」を食べながら以上のようなことを改めて考えた。

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ルドルフ・シュタイナーは、完全なる自由を目標としたのに、1978年にドイツに留学した頃から、人智学運動の「ドグマ」や「戒律」が目につくようになった。
さらに結構多くのドイツの人智学徒が人智学を宗教の代替として見ていることが気になった。
女性を例にすると、化粧をすると、あるいは、お洒落をすると何か「白い目」で見られる。ある日本の友人が言っていたが、「まだそんなことしてるの?」的な「白い目」であるらしい。
食の無頓着さも気になった。バイオダイナッミク農法ならそれで良い。味付けや、そもそも「料理」などどうでもいい。と言う人がかなりいた。健康「オタク」なのだけど、料理はどうでもいい、と言った具合だ。
それから、ヨーロッパの人智学徒の「大豆」嫌悪は甚だしい。大豆は「知的」にする(知的というコトバはネガティブに使われることがほとんどだ)だから唯物的な傾向が強まる、等という。だから豆腐、味噌、醤油等に対する批判も後を絶たない。
食に関して言えば、我々東洋人は、欧米人とはまったく異なる「肉体」を持っている。「生命体・エーテル体」もかなり異なる。「アストラル体」になると共通項は増えるが、それでも同じではない。「自我」としては同じなのだろうが、そこに行き着く道程は長い。
大豆文化は、東アジアを中心として発達した文化だ。それは、東アジアの人間の肉体に適したものだと言えよう。
豚肉を主流とする一般的ドイツ人の食文化とは異なる。そして、乳製品の摂取量は凄まじいものだ。
だから、東アジアの人間として見たとき、ルドルフ・シュタイナーの食についての言説は適当ではない場合が多いと思う。
「飲食」のタブーが出来たとたんに、その世界は狭まる。そして、偏狭となる。
昨晩、京都の「おぼろ豆腐」を食べながら以上のようなことを改めて考えた。

