ゲーテアヌム建設現場で講義するルドルフ・シュタイナー(唯一の写真)        「ラディカル」とは「ラディッシュ」と同じ語源で、「根源的」という意味。表面のみならず、その「根」を見ようとすること。このブログはそういった意味でラディカルでありたい。

2018/9/1

今日は朝鮮人大虐殺の日である  3・11東日本大震災と福島原発事故

 

 今日、9月1日は、95年前に関東大震災の起きた日で、「防災の日」とか言うらしい。

 1923年と言えば、大正12年。大正デモクラシーなどと言って、良い時代だったと思ってはならない。

 本来ならば、今日は「朝鮮人大虐殺の日」と呼ぶべきであろう。

 国に煽動され、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる、日本人を殺戮している、等と、信じ込んだ普段なら「善良な市民」が、警察と軍とともに、朝鮮人、中国人を虐殺したのである。

 なぜなら、普段から、朝鮮人や中国人に「不当な差別と誹謗」をしていたから、恨みを買うに違いないと、一般人が信じ込んだからだ。

 軍は、大陸で朝鮮人と中国人に、目も当てられないような残虐行為を行っていたから、当然恨みを買うと思ったのだろう。

 関東大震災の混乱に乗じて、朝鮮人は「仕返し」をすると確信したのだ。

 しかし、惨いことをしたものだ。

 この虐殺は、日中戦争と第二次世界大戦でも止むことはなかった。

 「南京大虐殺」は、実際にあったことは、歴史的事実である。

 資料がたくさん残っている。

 殺された人の数がどうのこうのと議論すべきではない。しかし少なくとも、「万単位」の中国人が南京で虐殺されたことは事実である。



 関東大震災で殺された、在日朝鮮人と中国人の数は分かっているだけで七千人以上。

 おそらく、万単位の朝鮮人と中国人が、惨い殺され方をしているに違いない。


 ユイスマンスの翻訳等で著名なフランス文学者、田辺貞之助が、関東大震災後に起きた、朝鮮人大虐殺の模様を手記に残している。

 今回は、その一部を紹介しておこう。


 





            江東と異変



 2 関東大震災


 新巻の匂い



 物情騒然とは、あの時分のことをいうのだろう。どこそこでは何人殺された。誰それは朝鮮人と間違えられて半殺しの目にあった。山といわれたら、そくざに川といわないとやられる。そんな話ばかりだった。小名木川には、血だらけの死骸が、断末魔のもがきそのままの形で、腕を水のうえへ突きだしてながれていた。この死骸は引き潮で海まで行くと、また上げ潮でのぼってくると見えて、私は三度も見た。


 番小屋につめていたとき、隣の大島町の6丁目に、死体をたくさん並べてあるから見に行こうとさそわれた。そこで、夜があけ、役目がおわると、すぐに出掛けた。



 石炭殻で埋立てた4、5百坪の空地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と2つの頸動脈がしらじらと見えるのがあった。うしろから首筋を切られて、真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。首の落ちているのは一体だけだったが、無理にねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、円っこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、「こいつらは朝鮮じゃなくて、支那だよ」と、誰かが云っていた。


 ただひとつあわれだったのは、まだ若いらしい女が──女の死体はそれだけだったが──腹をさかれ、6、7ヶ月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中にころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあるのに気づいたとき、わたしは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、私はいいようのない怒りにかられた。日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない。



 石炭殻の空地のわきに、大島牧場とかいて、丸太のかこいのなかに雌牛が7、8頭いた。そこで、生牛乳を売っていた。東京が全滅して牛乳が出せないので、臨時に店売りをしていたらしい。こいつはありがたいというので、みんなではいっていった。1合2銭だった。上着のポケットをさぐると10銭玉がひとつあったので、私は5合たのんで、ぐいぐい飲んだ。徹夜の夜番のあとの冷たい牛乳は、まさに甘露の味だった。1週間にわたる栄養の不足も、これで取りかえせるかと思った。


 だが、いい気分になって外へ出た途端に、血の匂いがむっと鼻をついた。と同時に、5合の牛乳をガッと吐いてしまった。さっきは、飲まず食わずの夜警で、鼻の粘膜がからからにかわいていたので、血の匂いがわからなかったのだろう。それ牛乳でうるおしたので、敏感に感じとったにちがいない。惜しいことをした。 



 その翌朝だった。私はやはり風呂屋につめていた。毎日、玄米の小さなおむすびと梅干だけだったので、腹がすききっていた。そこへ、明け方の4時頃だったろうか、脂っこい、新鮭をやくような匂いがながれこんできた。いままで、あんなにうまそうな匂いをかいだことがない。豊潤といおうか、濃厚といおうか。女の肌でいえば、きめのこまかい、小麦色の、ねっとりとした年増女の餅肌にたとえたいような匂いだった。それでいて、相当塩気がきいた感じで、その匂いだけで茶漬けがさらさらくえそうだった。私は思わず生唾をのんだ。腹がぐうぐう鳴った。だが、その音は私の腹だけから出たものではなかったらしい。


「うまそうな匂いだね」と、私は思わずいった。

「まったくだ。新巻の鮭だ!」

「誰がいまごろ焼いてやがるんだろう。いまいましい奴だ。押しかけていこうか」と、誰かが真剣な口調でいった。


 私たちはたまりかねて、みんな外へ出た。まるで九十九里浜へよせる高波のように、例の匂いがひたひたと町じゅうをつつんでいた。しかも、風呂屋のなかでかいだより数倍もつよく、むっと胸にこたえるような匂いだった。


「こりゃ、鮭じゃないぞ」と誰かがいった。「鮭にしちゃ匂いがつよすぎるし、一匹まるごと焼いたって、こんなに匂いがひろがるはずはない」


 私たちはしばらく棒立ちになって、いまは不気味な気持ちで、その匂いをかいでいた。

 1人が急に叫んだ。

「分かった! あの匂いだ!」

「何の匂いだ?」

「ほら、きのう見にいった、あの死骸をやいているんだ!」


 その途端に、私はむっとなにかが胸にこみあげてきて、腰の手拭で口をおさえながら、風呂屋のうしろへ駆けこんだ。 

                   

            (田辺禎之助著・「江東昔ばなし」・菁柿堂刊より)

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 過去の反省を真摯にしないなら、また繰り返されるだろう。

 今の政府や東京都知事は、この虐殺を認めようとはしないが、いずれにせよ、何かのきっかけで、彼らは、当時の「善良な市民」になることは、間違いないだろう。


 首都圏直下型地震と南海トラフ巨大地震が、間近と言われる今こそ、この虐殺の事実を胸に刻むべきであろう。



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2018/9/4  7:38

投稿者:小林直生

かず様
 残念ながら、東日本大震災の時も、熊本地震、そして、先日の広島での水害でも、「外国人窃盗団」が、被害にあった家を荒らしているという、流言が飛び交いました。
 広島では、警察がこの流言を否定する発表をしましたが、ほかの地域では、一発触発、危なかったと聞いております。
 IWJの岩上安身氏のインタビューなどが参考になります。一般報道では避けられている内容が、報道されています。

2018/9/4  4:23

投稿者:かず

小林様、2011年3月東日本大震災では海外から良い意味で驚かれさえすれ、この様は事は殆ど起こらなかった様に見られます。同じ日本人でもこの95年の間に大分進化したという事なのでしょうか。

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