ゲーテアヌム建設現場で講義するルドルフ・シュタイナー(唯一の写真)        「ラディカル」とは「ラディッシュ」と同じ語源で、「根源的」という意味。表面のみならず、その「根」を見ようとすること。このブログはそういった意味でラディカルでありたい。

2011/2/16

自由になろう!  21世紀の人智学

 

 キリスト者共同体の季刊誌「礎」2010年ミカエル祭号に書いた、エッセイを掲載します。「自由」を考えるためのヒントになれば幸いです。  







キリスト者の自由について考える                                   
                                小林直生
 1520年に書かれたマルティン・ルッター(Martin Luther, 1483-1546)の「キリスト者の自由」(Von der Freiheit eines Christenmenschen)は、キリスト教世界の大ベストセラーの一つですが、ここでルッターは、「律法」から自由になり、「福音へと向かう自由」を説きました。
 21世紀の今、このルッターの時代から約500年後に生きる私たちにとって、「キリスト者の自由」とは一体何を意味するのでしょうか。そもそも、自由とは何なのでしょうか?

 でも、その前に日本語の「自由」という言葉の短い「バイオグラフィー」を見てみましょう。
 この日本語「自由」は、幕末までかなり否定的な意味で使われていたようです。「我が儘に」、「勝手気儘に」といった意味が、本来の「自由」という言葉の意味なのです。
 福沢諭吉も、この言葉を英語のfreedom, liberty の訳語として使ってはいますが、この訳語の危険性についても語っています。

福沢諭吉『西洋事情』
「『リベルチ』とは自由と云ふ義にて、漢人の訳に自主、自専、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従容、等の字を用ひたれども、未だ原語の意義を尽くすに足らず」
「本文、自主任意、自由の字は、我儘放盪にて国法をも恐れずとの義に非らず。総て其国に居り人と交て気兼ね遠慮なく自力丈存分のことをなすべしとの趣意なり。英語に之を『フリードム』又は『リベルチ』と云ふ。未だ的当の訳字あらず」
「千七百七十年代、亜米利加騒乱の時に、亜人は自由の為めに戦ふと云ひ、我に自由を与ふる歟、否ざれば死を与へよと唱へしも、英国の暴政に苦しむ余、民の塗炭に救ひ、一国の不覊独立の自由にせんと死を以て誓ひしことなり、・・・・自由と我儘とは動もすれば其議を誤り易し、学者宜しくこれを審にすべし」

 本当は「御免」という言葉を、freedomの訳語に、福沢諭吉は使いたかったと言います。そうなっていれば、日本も随分と気楽な世界に成っていたかもしれません。すると、ルドルフ・シュタイナーのあの主著の一冊は、「御免の哲学」というタイトルになったのですね。
 それはさておき、本来、あまり良い言葉ではない「自由」に、それまで日本にはなかった概念を、「舶来品」として崇め奉り、無理矢理くっつけてしまったので、「自由」を語る時、やたらと抽象的、思弁的になってしまい、その本質を見ることが難しくなってしまったのかもしれません。日本で、自由について語ることは容易なことではありません。様々な自由という言葉に関する誤解や、思い込みがあるようです、ここでは触れませんが。

 英語で、freedom, ドイツ語で、Freiheit, と言う時、そこには、何か理想主義的な、ある意味「革命的」な、そして同時に、崇高な響きが感ぜられます。そして、その背景には、広義での「奴隷」という概念が前提としてあることに気づかされます。
 キリストが、「ヨハネ福音書」第8章で、「真理は、あなた方に自由を与えるであろう」と語った時、その背景に「奴隷からの解放」という前提があることを忘れてはいけません。キリストは、地位や身分の違いにかかわらず、あらゆる人が「罪の病の奴隷」であると前提しているのです。この意味での「奴隷解放」は、だから、「人類救済」を意味しているのです。

 「罪の病(やまい)」の症状の一つに、「本当のことを、本当とは思えず、本当ではないことを、本当であると思う」ということがあります。だから、キリストが言うように、「真理」を得ることが、私たちに自由を得させてくれるのでしょう。
 しかし、私たちは今生の人生一回限りで、罪の病の全てを癒すことは恐らくないでしょう。そして、当然、全ての真理を認識することもまたないでしょう。ただ、「部分的」ならば、真理を得て、自由になることは可能なのです。だから、「真の自由」を目指しながら、少しづつ、まずは部分的に自由を獲得していく、そのプロセスが大切になってきます。
 そのプロセスの中で特に大切なのは、「あらゆる権威から自由になる」という姿勢です。「権威主義」の克服ですね。権威主義者は、「自分の外」に権威を求めます。だから、自分で何かをやって失敗すれば、例えば、「私の上司が、こうしなさいと言ったから、そのようにしたんです」などと言って、自分には責任はないと主張するでしょう。そうです、この場合、全ては上司の責任であると、当人は主張するでしょう。
 しかし、たとえそれがうまく行かなかったとしても、それを行うことの根拠が、自分の中にあるのなら、「御免、自分で良かれと思ってしたことです。これが失敗したことによって生じた損失の責任は私が負います」と、「自由人」は言うに違いありません。そういえば、福沢諭吉が訳語として使いたかった「御免」は、今では「謝罪」の言葉としてしか使われませんね。

 それはともかく、「自由」ではなく、「自主」とした方が、本来の意味が伝わったかもしれません。
 権威を自分の内に見る「自主」、権威を自分の外に見る「他主」、この方が意味がスッキリとします。「他主」なら、自分は「奴隷」ですしね。すると、ルドルフ・シュタイナーのあの本は、「自主の哲学」となりますか。これは良い!、と思うのは私だけでしょうか。

 「自我の神」であるキリストと違って、例えば、ルドルフ・シュタイナーは神ではありません。だから単に、「シュタイナーが、こう言っている」から、それは「そうだ」とは限りません。だから、ここでもシュタイナーの発言をめぐって、「自主主義」と「他主主義」に分かれる可能性が出てきます。
 キリスト者共同体にとって、丁度、プロテスタント教会のルッター的立場にあるのが、ルドルフ・シュタイナーだと私は思っています。プロテスタント教会では、マルティン・ルッターの業績を十分に評価するも、同時に批判もいたします。それは当然です。日本人は、「批判」と聞くと、「それは悪いことだ」と目くじらを立てる人がたくさんいますが、そもそも日本に元々なかった、この概念には、「批評」という意味も含まれているのです。ドイツ語では、このKritikという言葉は、「批判」「評論」そして「批評」などを意味します。
 また、ローマ・カトリック教会の聖人のように、シュタイナーを位置づけることは誤りだと思います。聖人は絶対的ですから、いわゆる「批判」の対象には成りません。ある優れた人物を「聖人化」する傾向は、しかし、いたるところに潜んでいます。
 しかしながら、面白いことに、キリストは、主人ではなく私たちの「友」であろうとする、唯一の神です。これを忘れては、キリスト教は、「他主主義」となり、私たちは、永遠に「僕」、悪く言えば「奴隷」であり続けることになってします。

 「私はもう、あなた方を僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなた方を友と呼んだ」、ヨハネ福音書第15章15節

 このキリストの言葉の中に、キリスト者の真の自由が隠されています。そうです、キリストを理解するためには、まず、友人をもつことが大切なのです。もっと、ラディカルに言えば、自分に親友がいなければ、キリストを理解できない、とまで言えるのかもしれません。
 ドイツロマン派の美しい言葉の一つ、「ひとりの女性を愛せずして、どうして神を愛せよう」(19世紀前半の言葉です。女性の方は目的語を、ひとりの男性、として下さい。あるいは、ホモセクシャルの方は、同性にして下さい)と同様、「友なくして、どうしてキリストを理解できよう」と言えるかもしれません。

 この構造は、キリスト者共同体にも当てはまると、私は考えます。司祭と成員は、「他主主義」的関係にあるのではなく、「自主」である個人同士の「友人関係」にあるのです。友は、信頼でき、裏切りません、困った時には助けに来てくれます。時には、考え方の違いで口角泡を飛ばす議論をして熱くなるやもしれませんが、そこは、友人同士、互いに信頼は不動のものとしてあります。だから率直に、自分の信念を「直球」で言い表す。それが友人というものです。この「自主主義」的キリスト教の中に、初めて真の「自由」が生じ得るのです。


                    おまけ

 キリスト教には、食べ物や飲み物に対する「タブー」がないというのは宗教では特別なことです。世界宗教の中で唯一といってよいほどです。
 ユダヤ教には、613の戒律があり、豚肉や鱗のない魚介類を食べてはいけないことになっています。イカ、タコはもちろん、蟹もエビも食べてはいけないのです。乳製品と肉を一緒に出したり、料理することも禁じられています。
 イスラム教では、更にアルコールが禁止されています。そしてイスラム教徒は、ユダヤ人の料理を食べて良いが、ユダヤ人は、イスラム教徒の作った料理を食べてはいけないことになっています。
 また、ヒンズー教では、牛肉と豚肉は食べてはいけないことになっています。「黄泉の国への乗り物」である水牛の肉は食べてもよいそうですが。
 こうやって考えてみると、特に明治以降の「和食」は、タブーのない伝統料理なのですね。まさに、「キリスト的料理」と呼ぶにふさわしいのが、日本の料理なのです。
 
 「自由感」を体感させてくれるのは、やはり食文化です。アレルギーや、疾患がある場合は別として、何でも食べ飲めるということは、「自主感覚」を強めてくれるような気がします。

 「聞いて悟りなさい。口から入るものが人を汚すことはない。そうではなく、口から出るものが人を汚すのである」、マタイ福音書第15章10-11節

 こう語っても訳の分からないことをいう弟子達に、イエスは愚痴っぽくこう言います。

 「あなた方も、まだ分からないのか。口から入ってくるものは、みな腹の中に入り、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出て来るのであって、それが人を汚すのである。 (・・・) しかし、手を洗わないで食事をすることは、人を汚すことではない」、同福音書第15章16-20節

 ちょっと、苛ついた感じの、人となった神の言葉です。なにか、ちょっとユーモアがあって楽しくなってくる言葉ですね。

 気の置けない友人達と旨いものを食べながら、人類と地球の未来を造るために、まずは、自分たちの生きている社会とどうかかわり、何ができるのかを語り合う、これぞ現代キリスト者の「自主」なのかもしれません。
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2013/9/22  8:26

投稿者:メグミヨシイケ

〜その前に日本語の「自由」という言葉の短い「バイオグラフィー」を見てみましょう。〜こうゆう作業を経過することで、長い間どこかでひっかかっていた感覚的なことが腑に落ちました。ありがとうございます。また、みなさんのコメントも興味深く読みました。

2011/2/24  8:53

投稿者:小林直生

小径様 その番組は興味深いですね!見てみたかったなあ。

2011/2/22  9:56

投稿者:小径

昨日のビート・タケシさんの番組で
今の日本の状況(少子化、子供手当てと年金の問題)を劇的に改善する方法として
イタリア人の日本研究で有名な教授が提案していた方法が
国民全員にひとり一律毎月10万円を終生配るというもので、これに対し自民党と民主党の国会議員が各ひとりずつ
「これは有効な手段だと思う。考慮のよちあり」みたいなコメントを入れていました。

細かいところは違っていましたが
これはやっぱりベーシックインカムの考え方に近い方法で少しずつでも「こういう方法もあり」の方向に向かってくれたらいいなぁ・・・と思いました。

2011/2/22  8:07

投稿者:小林直生

がねっしゅ様 的確なご指摘をありがとうございます。もっと時間を作って、ベーシックインカムについて深めたいと思います。

2011/2/21  10:24

投稿者:がねっしゅ

Freiheitを自主と訳すのはとても興味深いです。経済におけるBruderschaftでしたか、友愛ではなく兄弟性を考える際の基調として自主が芽生えるなら、社会的にそれらを繋ぎ、後押しする積極的なシステムがベーシック・インカムであることがはっきりしてくるように思います。

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