2016/7/3
東京「君が代」裁判第3次訴訟第3回最高裁要請書(1/3) X日の丸・君が代関連ニュース
★ 東京の教育を考える校長・教頭経験者の会による最高裁要請 7月4日(月)15:30〜16:90(15分前最高裁西門集合)
最高裁第三小法廷 裁判官 殿
東京都教育委員会(以下、都教委)が2003年10月23日付で発した『入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)』(以下、「10.23通達」)とそれに基づく不当処分を身を以て体験したものとして感じるのは、精神的苦痛というよりは恐怖です。
裁量権という名目で、権力が個人を抑圧することを正当化する法的システムに、日本の社会が支配される恐怖です。以下、その理由を述ぺます。
都教委は10.23通達の根拠を学習指導要領と1999年に施行された「国旗及び国歌に関する法律」(以下「国旗・国歌法」)に置いています。
学習指導要領の法的拘束性についてここで論じるつもりはありませんが、「ゆとり教育」批判を浴びた文部科学省が従来の姿勢を2003年に突如一転させ、何ら説明もなく「学習指導要領は最低基準」と言い出したことでも明らかなように、学習指導要領が文部科学省に不当に大きな裁量権をもたらしていることは明白です。
私たちの処分の根拠となった「国旗・国歌」についても、文部省(当時)が1958年に「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合は、……国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」という内容で学習指導要領に潜り込ませ、その後改訂ごとに拘束性を強めてきました。1977年に告示した学習指導要領から文部省は「君が代」に代えて「国歌」の語を使用し、1989年には「入学式や卒業式などにおいては」、国旗掲揚・国歌斉唱を「指導するもの」と規定しました。「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」として扱うことは、長く国会での議決もないまま、法以外のところで、文部省が恣意的に強要してきたのです。
「国旗・国歌法」制定時に当時の小渕首相は、「今回の法案は、国旗・国歌の根拠について、慣習であるものを成文法としてより明確に位置づけるもの」と述べていますが、学校現場から見る限り、その慣習とは行政が学習指導要領を用いて権力的に持ち込んだものとしか言いようがありません。
一方、小渕首相は国会審議時に、「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」という政府答弁をしています。
ところが都教委はこうした法制定時の趣旨を逸脱し、1999年に「国旗掲揚・国歌斉唱」を強制する通遠を発出し、それに対する抵抗が強いと見て、さらに強い強制力を持った10.23通達を2003年に出しているのです。
裁量権の不当な行使は、私たちの個別の処分についても行われています。私の揚合、事情聴取でのメモ書きを妨害されました。経緯については前記陳述書に記してありますので繰り返しませんが、勝手な規則を作って個人の自己防衛権を侵害しています。
また都教委は、私が不起立をした2006年度に懲戒処分に伴う給与の昇級幅の圧縮と勤勉手当の減額を行いました。その結果、戒告処分での昇級幅(処分がなければ4号給昇級)の圧縮は1号給減から2号給減に、勤勉手当の減額は10%から20%へと増加しました。2005年度までなら2号給減、20%減額は(減給を超えて)停職に該当します。もちろんこれらは「日の丸・君が代」に関する処分だけに適用されるものではありませんが、都教委の狙いがそこにあることは想像に難くありません。そしてこの様な一方的な改悪も、行政の裁量で認められてしまうのです。
そうした裁量権の許しがたい逸脱は、私たちの高裁判決の後の都教委の再処分に端的に表れています。これについては当該する原告が先の要請でも縷々述べていますから、私からは繰り返しませんが、減給処分が取り消された原告の内、今も都立学校で勤務している9人の現職者に対しては、控訴しないで判決を確定させ、その上で戒告の再処分を下しているのです。勝訴してかえって以前より重い不利益(2014年度から戒告は3号給減になっています)を、その行為を行ったときではなく、今の規定で行うということが、適切な裁量と言えるでしょうか。まさに都教委の意に添わないものは徹底的に抑圧し排除しようとする、権力の横暴としか考えられません。
私のいう裁量権は、法的な意味で厳密に定義されたそれより広汎な概念になっているかもしれません。しかし自らに都合よく法を解釈し、通達によって強制し、規定を変更するといった都教委のあり方を裁量権の名の下に黙認するなら、民主主義の基本となるべき立憲主義が砂上の楼閣となることは目に見えています。違憲審査権を持つ最高裁の賢明で公正な判断を求めて已みません。
最高裁第三小法廷 裁判官 殿
◎ 要 請 書
2016年6月29日
上告人 MN
私は2007年3月の卒業式の「国歌」斉唱時に起立しなかったため戒告処分を受けました。起立できなかった理由や当時の心情などついては、2011年に東京地方裁判所に提出した陳述書、あるいは2015年に東京高等裁判所に提出した補充陳述書に記してきましたが、今回機会を得て、改めて戒告処分の不当性を主張し、最高裁判所裁判官各位の公正なる判断を仰ぎたいと思います。上告人 MN
東京都教育委員会(以下、都教委)が2003年10月23日付で発した『入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)』(以下、「10.23通達」)とそれに基づく不当処分を身を以て体験したものとして感じるのは、精神的苦痛というよりは恐怖です。
裁量権という名目で、権力が個人を抑圧することを正当化する法的システムに、日本の社会が支配される恐怖です。以下、その理由を述ぺます。
都教委は10.23通達の根拠を学習指導要領と1999年に施行された「国旗及び国歌に関する法律」(以下「国旗・国歌法」)に置いています。
学習指導要領の法的拘束性についてここで論じるつもりはありませんが、「ゆとり教育」批判を浴びた文部科学省が従来の姿勢を2003年に突如一転させ、何ら説明もなく「学習指導要領は最低基準」と言い出したことでも明らかなように、学習指導要領が文部科学省に不当に大きな裁量権をもたらしていることは明白です。
私たちの処分の根拠となった「国旗・国歌」についても、文部省(当時)が1958年に「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合は、……国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」という内容で学習指導要領に潜り込ませ、その後改訂ごとに拘束性を強めてきました。1977年に告示した学習指導要領から文部省は「君が代」に代えて「国歌」の語を使用し、1989年には「入学式や卒業式などにおいては」、国旗掲揚・国歌斉唱を「指導するもの」と規定しました。「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」として扱うことは、長く国会での議決もないまま、法以外のところで、文部省が恣意的に強要してきたのです。
「国旗・国歌法」制定時に当時の小渕首相は、「今回の法案は、国旗・国歌の根拠について、慣習であるものを成文法としてより明確に位置づけるもの」と述べていますが、学校現場から見る限り、その慣習とは行政が学習指導要領を用いて権力的に持ち込んだものとしか言いようがありません。
一方、小渕首相は国会審議時に、「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」という政府答弁をしています。
ところが都教委はこうした法制定時の趣旨を逸脱し、1999年に「国旗掲揚・国歌斉唱」を強制する通遠を発出し、それに対する抵抗が強いと見て、さらに強い強制力を持った10.23通達を2003年に出しているのです。
裁量権の不当な行使は、私たちの個別の処分についても行われています。私の揚合、事情聴取でのメモ書きを妨害されました。経緯については前記陳述書に記してありますので繰り返しませんが、勝手な規則を作って個人の自己防衛権を侵害しています。
また都教委は、私が不起立をした2006年度に懲戒処分に伴う給与の昇級幅の圧縮と勤勉手当の減額を行いました。その結果、戒告処分での昇級幅(処分がなければ4号給昇級)の圧縮は1号給減から2号給減に、勤勉手当の減額は10%から20%へと増加しました。2005年度までなら2号給減、20%減額は(減給を超えて)停職に該当します。もちろんこれらは「日の丸・君が代」に関する処分だけに適用されるものではありませんが、都教委の狙いがそこにあることは想像に難くありません。そしてこの様な一方的な改悪も、行政の裁量で認められてしまうのです。
そうした裁量権の許しがたい逸脱は、私たちの高裁判決の後の都教委の再処分に端的に表れています。これについては当該する原告が先の要請でも縷々述べていますから、私からは繰り返しませんが、減給処分が取り消された原告の内、今も都立学校で勤務している9人の現職者に対しては、控訴しないで判決を確定させ、その上で戒告の再処分を下しているのです。勝訴してかえって以前より重い不利益(2014年度から戒告は3号給減になっています)を、その行為を行ったときではなく、今の規定で行うということが、適切な裁量と言えるでしょうか。まさに都教委の意に添わないものは徹底的に抑圧し排除しようとする、権力の横暴としか考えられません。
私のいう裁量権は、法的な意味で厳密に定義されたそれより広汎な概念になっているかもしれません。しかし自らに都合よく法を解釈し、通達によって強制し、規定を変更するといった都教委のあり方を裁量権の名の下に黙認するなら、民主主義の基本となるべき立憲主義が砂上の楼閣となることは目に見えています。違憲審査権を持つ最高裁の賢明で公正な判断を求めて已みません。






