2017/1/22

自民党による「家庭教育支援法案」をめぐって  ]Vこども危機
 ◆ 新自由主義政策を補完させられる「家族」を乗り越える道 (教科書ネット)
田代美江子(埼玉大学教授)

 ◆ すでに進行する「家庭教育支援」
 「家庭教育支援法案」(以下「法案」)なるものを、自民党が来年の通常国会で提出しようとしているとの報道が11月になされました。この「法案」の骨子は、以下の通りです。
・保護者が子に社会との関わりを自覚させ、人格形成の基礎を培い、国家と社会の形成者として必要な資質を備えさせる環境を整備する
・保護者が子育ての意義を理解し、喜びを実感できるようにする
・国と自治体、学校、地域住民などの連携の下、社会全体で取り組む
・文部科学省は家庭教育支援基本方針を定める。自治体は実情に応じて基本的な方針を定めるよう努める
・国と自治体は、家庭教育に関する保護者への学習機会の提供や相談体制の整備に努める
 この「法案」に対する主な批判は、私的領域である家庭に国家権力が介入することの問題性であり、同時に、それは自民党の改憲案とも符合するという点で「改憲への布石」ではないかといわれています。


 自民党による改憲案の中の第24条では、両性の合意に基づく婚姻について定められた第1項の前に、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」という新たな項が付け加えられています。
 改憲への懸念はもっともですが、この「法案」が出されるまでもなく、「家庭教育支援」への動きは、2006年に改訂された「教育基本法」にすでに表れています。
 その第10条で、国と地方公共団体が「家庭教育の支援」に「努めなければならない」と明記されたのです。
 この教育基本法にもとづき、2011年には、文科省が「家庭教育支援の推進に関する検討委員会」を設置し、翌年3月には『つながりが作る豊かな家庭教育』(以下『報告書』)という報告書が出されています。
 こうした動きを受けて、多くの自治体が次々と「家庭教育支援条例」を制定している現状がすでにあります。
 つまり、布石はとうに打たれており、陣地は着々と奪われているのです。

 ◆ なぜ「家庭教育支援」なのか
 重要なことは、なぜ「家庭教育支援」なのかということです。
 「法案」に先立つ『報告書』では、「家庭教育支援が一層求められている状況」として、「若者の引きこもり、不登校、社会格差の問題、児童虐待相談対応件数の増加など、家庭と子どもたちをめぐる問題は複雑化してい」ること、さらに「共働き世帯は増加を続けており、子育て家庭を社会全体で支える必要性はますます高まってい」ることが述べられています。
 しかし、こうした状況は、まさに貧困や格差が拡大している社会そのものの課題であり、「家庭の問題」でないことは明らかです。
 論理をすりかえ、あたかも家庭を「支援」するフリをして、社会の矛盾を家庭の責任、個人責任にすりかえる、まさに責任転嫁以外の何ものでもありません。

 21世紀に入り、日本社会の貧困と格差はますます深刻な状況に陥っています。
 「相対的貧困」という言葉は認知されつつありますが、その現実は見えにくく、高校生が貧困であることを訴えた番組に対するバッシングに見られるように、貧困についての理解は極めて不十分なものです。
 このような貧困と格差は、新自由主義的な競争社会の中でうみだされたものです。日本の新自由主義政策は、高度経済成長終焉後の80年代から始まり、小泉純一郎政権の際の構造改革路線から本格的に進められてきました。
 「家庭教育支援」は、こうした新自由主義政策の中で重要な意昧を持ちます。つまり、貧困と格差を拡大させる新自由主義を強行的に進める自民党にとって、性別役割分業を前提とする家族・家庭は絶対的に必要なものなのです。

 ◆ 貧困や格差も自己責任のもとで放置
 新自由主義とは、政府による介入は最低限にすべき(=「小さな政府」)という原理のもとで市場の利益が最優先される高度な競争社会だといえます。
 この結果、福祉も「最低限」に抑えられ、貧困や格差も自己責任のもと放置されることになるのです。
 この福祉の切り捨ての代替が家族・家庭なのです。
 そのために、「小さな政府」は、家族・家庭に介入しようとするわけです。
 家族・家庭は「私的領域」のように見えますが、新自由主義政策を補完する重要な役割を果たすものなのです。

 原理はさほど複雑ではありません。
 本来であれば、政府が財政的に責任を持つべき子育てや介護といった「ケア労働」を、家庭内の女性に「アンペイドワーク(ただ働き)」として押しつけることで、福祉予算を限界まで削るというわけです。

 家庭の中で、疑問を持たず、反乱を起こさず、この「ケア労働」を女性に担ってもらうために、家族・家庭がいかに大切かを強調する必要があります。
 さらに女性は、利益追求を絶対とする新自由主義を下支えする非正規雇用・低賃金労働者としても利用されています。
 配偶者控除が、結局廃止されなかったのは、この文脈から言えば当然のことです。上限が150万円に引き上げられたことによって、低賃金のままもっと長時間働けというわけです。
 2013年頃から「女性活躍」がアベノミクスの目玉のように喧伝され、2016年に「女性活躍推進法」が制定された動きもこの一環です。
 性別役割分業を根本から問い直すことのない「女性活躍」は、過労死するような男性並みの働き方をする女性、家庭でのアンペイドワークを握う女性、労働市場で低賃金で利用される女性と、女性間の格差を拡大し、女性を分断する政策でしかありません。
 「女性活躍」という文言は、あたかも「男女平等」を装っていますが、むしろ女性間、男女間の格差を広げ、男性を非人間的な労働環境に縛りつけるものでしかないのです。

 ◆ 新たな家族像を模索する
 それでも、「家族はかけがえのない大切なもの(であるはず)」という幻想は強固です。
 2011年の東日本大震災後、メディアなどによって「家族の絆」が強調されたのは、本来なされなければならない公的支援を、「寄付」や「家族の支え合い」で補おうとするものでしたが、「家族の絆」という心地よい響きに、多くの人々は絡め取られてしまいます。
 私たちが今の「家族」のあり方に無批判なまま、「家族」にしがみつけばつくほど、日本社会の格差と貧困、差別をうみだすことに荷担することになります。
 まずはその事実に向き合う必要があります。
 同時に、自分たち自身が人間らしく生きるための家族をどのようにしたらつくることができるのかを模索していくことが重要です。

 フェミニズム理論の中で、「家族」は「あらゆる親密性によってつながり集まった人々を包摂するよう定義されるべき」とされ、多様な家族のあり方を承認する方向にあります。
 当然そこには、同性結婚も含まれます。
 『正義・ジェンダー・家族』(岩波書店、2013)の著者であるスーザン・M・オーキンは、その著書の中で、「新しい家族のかたちや伝統的でない分業のあり方が、単に認識されるだけではなく推奨されるようにならない限りは、家内的な領域においても公的な領域においても女性の平等を望むことはできないだろう」(p202)と述べています。
 「法案」の骨子には、「国家と社会の形成者として必要な資質を備えさせる」とありますが、家庭教育であれ学校教育であれ、その社会を主体的に生き、よりよいものに変革しうる主体形成を目指すものでなければ教育と呼ぶことはできません。
 一人ひとりが、より人間らしく幸せに生きるために、家族の新たなあり方を模索できるような教育が、差別や格差のない社会を目指す基盤となるはずです。
 それは、性別に関わりなく、「個人は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。個人は互いに助け合わなければならない」とされる社会です。
(たしろみえこ)

『子どもと教科書全国ネット21ニュース 111号』(2016.12)


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