2018/11/1

強制される「教科道徳」に対して切り返せる糸口を持ちたい  ]Vこども危機
 ◆ 教師の声が、保誰者や市民、教育委員会に届き、理解し合える関係
   〜道徳の教科化を再考する新しい運動に
(教科書ネット)
持田早苗(神奈川県藤沢市教員)

 7月12日付の茨城新聞「県民の声」欄に,小学校6年生の投稿が掲載されたということを知りました。タイトルは「『道徳』に成績ない方がいい」というものです。

 「小学校の道徳に成績をつけるのは反対だ」と切り出し、「成績に差がつくと、逆にいじめにつながるのではないか?」との懸念をあらわし、「成績を上げるためだけに道徳をするようになったら、授業で考える優しさや心の大切さが感じられないと思う」と、成績のためには教師の望む「答え」をそんたくせざるをえない危険性も告発していたそうです。

 このような小学生の意見に、文科省は、しっかり耳を傾け、動き出した道徳に対して、道徳の教科化を再考するべきです。


 ◆ 教科書に自己評価させる欄が「ある」

 文科省は、
   「数値による評価はしない」、
   「他の生徒との比較はしない」、
   「記述式で行い、調査書には書かない」、
   「内容項目(徳目)ごとの評価はしない」、
   「内容項目は手がかりとなるものであり、そのものを教え込んだりしない」など、
 たくさんの「ない」をつけ、そして道徳を教科化したのです。

 はじめから無理を強行したことは、この言い方からもはっきりしています。
 実際、生徒が手にする教科書には、「ない」と言いながらも、いくつもの教科書会社で学ぶことが必要としている内容項目ごとに、1〜4の段階で,自己評価させる欄がありました。

 教師の会話には「この内容項目にどうやって落とし込んだらいいのか、むずかしい・・」という声も聞こえます。
 また、市や県の教育委員会では、各校に道徳教育推進教師をおき、多忙化の中、指導の研修をくりかえしさせています
 さらに「他の教師との協力的な指導」などの工夫を求め、教師は研修、指導案づくり、授業公開、個人への記述の評価などに追いまくられています。

 もうこれ以上、学校の教師を追い立てないで、もうこれ以上責めないで、の悲鳴が聞こえてくるようです。
 子どもたちと向き合う時間さえ無くなっているのですから、文科省が、道徳の教科化の理由とした、いじめ問題の対応などは、難しくなります。子どもたちは、どうなってしまうのでしょうか。

 ◆ 豊かな人間性を育むとは反対方向に

 今まで、道徳の時間については、現実に起きている様々なできごとのなかに、学ばせたい内容、話し合わせたい事柄がたくさんありました。
 教師はそれを見つめる目を持って、学年や学校で話し合い、教育を進めてきました。私の関わった中学校でもそれは言えます。
 子どもたちの心の荒れに翻弄された時期でも、だからこそ人の痛みがわかる人権の視点で、話し合いました。(「青い目茶色い目」「中村哲さん」「佐々木禎子さん」「NPOの方々」「新聞記事」…環境、平和問題にも発展していきました。教科や総合の時間、特別活動の時間も工夫しました)。

 そして、子どもたちの成長を確認しながら、専門家としての教師の力を、教師集団としてもつけてきたと思います。それら教師の自主性を奪い、ひたすら内容項目にそった教科書が手渡され、目の前の子どもたちの、抱えている問題とは遊離した内容を教えることを教師に強制するとしたら、それがそもそも教育といえるでしょうか?教師の仕事といえるのでしょうか?

 子どもたちは(おとなも含めてですが)、間違いをしながら成長します。人間らしい成長だと言えると思います。
 わんぱくな子ども、賑やかな子、やんちゃな子、ひょうきんな子、悪ガキと言われそうな子、もじもじしてうまくできない子・・・。
 みんないて、お互いの良さを認め合うことで、問題行動の背景もわかり、お互い理解し合い、時には許し合い、人間らしいつきあいをしていける、これは教室の、そして社会の、大切な在り方だと思います。

 1時間単位の、決められた教科書(内容項目)を使った道徳ではとうてい育てられるものではありません。
 道徳の教科化が、強制を伴い、豊かな人間性を育む、とはまったく正反対の方向で進行してしまうのが心配です。

 道徳教科書の問題点が、全国的な運動の中で明らかになっています。
   「決まり」はどんな内容でも絶対守ること、
   一生懸命、奉仕し、我慢して働くことがいちばん大事だということ、
   日本人は素晴らしいという気持ちを持つこと、
   礼儀、心は形で示すこと、
   家族愛のため自己犠牲をたたえること、
   個人より集団(家庭・国家)の一員としての責任が大事だということ、
   植民地支配や歴史を無視した偉人としてみること、など。

 子どもたちは、小学校から引き続き9年間もこれでもかというくらい、ほぼ同じような内容項目のみ扱う教材で、授業を受けることになります。
 落としどころの結論めいたことを言わされ、書かされ、道徳の授業が行われていくとしたら、想像しただけでぞっとします。

 ◆ 無自覚に愛国心がすり込まれる

 中学生は、この教科書に沿った道徳の授業では、逃げ出すか、抵抗するか、そんな子どもが出るような気がします。
 「こんなのやってらんねえ〜」と、結論が見えすいていて、たまらないから、保健室や他の先生の所に逃げこむ子どもたちが出てくるのではないか、と思います。
 教科書通りの指導に正面切って抵抗するかもしれません。
 また、いいたいことを自由に言えないので、内面にこもり、大人からは一線を画して、心を閉ざす子どもも出てくると思います。大人の前で本音と建て前を使い分ける子どもも出てくると思います。
 結局大人なんかに話すもんか、友だちなんか信用できるか、と、人間不信に陥る危険がとてもあると思います。

 また一方で教科書をそのまま素直にうけとめ、考えず、個人より集団こそが優先という、国家の介入をそのまま自然と受け入れ、無自覚に愛国心がすり込まれる子どもたちも多くいると思います。
 日本礼賛の素直な子どもたちが、国家に利用され、都合のよい人材として、使われていくとしたら…。おそろしいことです。

 本音で話し合いたい、人間を信頼してかかわりたい、そこから、すべて、教育は始まります。が、それができないとしたら、教師として、とてもつらいことです。
 子どもたちには、いろいろな影響が心配されますが、それでも、前述の新聞への投稿の、小学生のように、自分が受ける道徳に、しっかり意見を表明できる子どもも育っています。
 中学生なら、当事者としてこの道徳をめぐる問題に、何らかのアプローチをさせ、考えさることは、もっとできると思います。

 ◆ 教職員が自由に議論し実践することが大切

 そもそもこの道徳に関して文科省は、「考え、議論する道徳」「特定の価値の押しつけにならないように」と言っています。
 こういう、使えるものは使い、今まで教師集団でやってきた自主的な教材の工夫に自信を持って、切り返せる糸口を持ちたいと思います。

 文科省元事務次官の前川喜平さんは「教育の実態は、学校現場にしかない。統制ではなく、教職員がもっと自由に議論し、実践できるようにすることが大切だ」と言っています。
 「素直で自己犠牲をいとわない」よう内容項目を通じて押しつける動きがあるならば、対峙する「疑問を持って考えさせ、批判する」力を、「愛国心」を押しつけるならば、国境を越えた「国際連帯」の視点を育てたいと思います。
 子どもたちには、個人の尊厳、平和、民主主義などについて考えられる課題を取り上げたいと思います。
 教師の声が、保護者や市民、教育委員会に届き、理解し合える関係作りをしていけたら、道徳の教科化を再考する新しい運動になれると思います。(もちださなえ)

『子どもと教科書全国ネット21ニュース 121号』(2018.8)


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