2019/10/9

「ひとはなぜ学ぶのか」社会全体が利得に偏り、教育もそれに引っ張られすぎている  ]Vこども危機
 ◆ 名門校教師が危惧する「グローバル教育論」の罠 (東洋経済オンライン)

 経済界のひとたちは「これからはグローバルな時代に対応できる人材を育てなければならない」と連呼しています。ただ、彼らは子どもたちの生き残りのためではなく、自分たちが生き残るために「グローバル」を連呼しているように見えます。
 それなのに、そういった企業のお偉いさんの意見を取り入れて、「これからは使える英語を学ばなきゃいけない。大学入試でも英語の4技能を見るようにしよう」という話になっています。

 ◆ ビジネスのための勉強はつまらない
 せっかく英語を勉強しているのですから、話せるようになったほうがうれしいに決まっています。しかし「英語をやっておかないと、将来食いっぱぐれるかもしれない」という強迫観念的に英語を学ぶのだとしたら、そんなにせこくてつまらない学びはありません。


 そのような考え方は、そもそも「ひとはなぜ学ぶのか」という問いを矮小化してしまいます。目先の目的にとらわれた学びしかしていないと、世の中を哲学的にとらえる視野はどんどん狭くなってしまう。
 毎日学校という教育の現場で子どもたちと接する先生たちの話を聞いていると、このような危機感が強く伝わってきます。

 現在大混乱に陥っている大学入試改革も、もとはといえばグローバル化などの時代の荒波に対応できる教育に変えていこうという発想から始まりました。しかしそもそも、グローバル化の時代に必要な教育とはどんなことなのでしょうか。中高生のうちに学ぶべきことを、名門中高一貫校の先生たちに聞きました。

 「財界の意志を反映して、『グローバル時代に対応できる人材を育成する』といった場合には、経済活動上のスキルを若者に身につけさせる必要があるという意味合いで議論されることが多いように思います。一方で、これからの時代には地球規模でものごとを考えなければいけないという意識がわれわれのなかにあります。先進国がエゴを捨てて、これまでとは違った視点から、地球全体のことを考えなければいけない局面にきているのだと思います」

 桐朋中学校・高等学校の片岡哲郎校長はそう指摘します。「グローバル」という言葉がもつこの2つの意味が混同して使われているために、いま、世の中にいろいろな矛盾が生じているという指摘です。

 「グローバル経済が大きな経済格差をもたらすであろうことも、かねてより指摘されていました。イギリスのEU離脱、トランプ政権の誕生、その後もヨーロッパの大国の選挙では、社会階層による対立が表面化しています。グローバル経済が発展していくのであれば、当然予測のできたことでした。

 多様性に対してある種の寛容さをもって、そのなかに共通の正義だとか共通の価値観を見出す作業をどうやっていくのか。
 内側では、『分断』という言葉に象徴されるように、一人ひとりの人間が関係性を失っているというか、閉塞感を感じているというか、そういう社会のあり方をどういうふうにしていけばいいのか。
 日本においても格差は重要な問題になっています。そういう時代のなかで、外側では異なる価値観や文化をもったひとたちとの関係をつくっていかなければいけません」

 ◆ 若くして起業することの何が偉いのか? 

 巣鴨中学校・高等学校の堀内不二夫校長の認識も似ています。

 「先進国内にも鬱憤がたまってきている。勝手にやろうみたいなリーダーが出てきている。でもそれは通らないですよね。いまのままではEUだってもたないんじゃないかと思います。あんまりそういうことを言うと、いまの保護者には受けが悪いのかもしれませんが、子どもたちにはやっぱり、単に、いわゆる経済的な利得だけを求めるっていう人間にはなってほしくないなとは思うのです」

 拙著『21世紀の「男の子」の親たちへ』でも繰り返し主張していますが、実際、社会全体が利得に偏り、教育もそれに引っ張られすぎているように私も感じています。

 「お金を稼ぐことは悪いことではありませんが、最近、若くして起業することをやたらともてはやしますよね。でも、子どもの時代に読むべき本もあるだろうし、勉強もあるだろうし、友達との関係もあるだろうし。もっとそっちに時間を使うべきでしょう。でもそういうことを言っていると、なんか古いっていう話になる(笑)」

 促成栽培のビジネスマンを育てるような教育には、私も感心しません。
 じっくりと時間をかけて、たくさんの日光と雨を浴びて自ら大地の養分を吸収できるようになれば、青々とたくましく育つものを、ビニールハウスに入れて養分を与えてとにかく早く育てようとする。たしかにそれでも育つには育つが、いつまでも肥料を与え、温度管理をしてやらないと枯れてしまうようなことだからです。
 「これからは英語が必要だ」
 「ITリテラシーも必要だ」
 「偏差値よりも思考力だ」
 「ディスカッションやディベート能力がないとこれからのグローバル社会では生きていけない」
 などと、大人たちは自分たちの未来予測に基づいて、もっともらしいことを言います。

 しかしもしその未来予測が外れたら子どもたちが生きていけなくなるのだとしたら、それは本当の「生きる力」とはいえません。「生きる力」という言葉には、「どんな世の中になっても生きていけるための力」というニュアンスが込められているはずです。
 つまり、「生きるためにこれとこれが必要だ」と教えてもらうことでは「生きる力」は身につきません。
 その場その場で自分が生きていくうえで必要なものを自分で見極めて、どうやったらそれを手にすることができるかを考え、そのための努力を続けることができる力こそが「生きる力」であるはずです。

 ◆ ビビっている大人が子どもの「生きる力」をそぐ

 さらに言えば、グローバルに活躍するということは、日本という足場を離れ、文化も価値観も生活様式も異なる人々とわたり合うということです。つまり、つねに「アウェイ」の状態で力を発揮しなければいけない。どんな状況にあっても、そのときその場にあるものでなんとかする覚悟と知恵と度胸がものをいいます。

 そう考えると、「グローバル人材になるためには、あれとこれが必要だ」という発想自体、「グローバル人材的」ではないと私は考えます。

 それなのに、いまの教育議論は、「子どもに何を教え授けるべきか」ばかりに終始しているように思います。
 それは、使うか使わないのかわからないアプリを片っ端からスマホにインストールするようなことです。
 それより大事なのは、将来どんなアプリでもすぐにインストールできるように、スマホそのものの性能を上げておく。すなわち自分の頭で考える力を磨いておくことでしょう。

 急速な社会のグローバル化を前にして、「グローバル人材にならなければいけない」「もっと強力な生きる力が必要だ」と慌てふためいているのは、「自分たちの経験則がもう役に立たない」と感じている大人たちです。
 でも、子どもたちにあれもこれもと教え込もうとするのは、子どもからしてみればありがた迷惑以外の何物でもありません。あれもこれもと与えすぎることは、逆に子どもたちの「生きる力」をそぐことになりかねません。

 変化の激しい時代だからこそ、しっかり大地に根を張った、地味で泥臭い基本を大切にした教育の価値が見直されなければいけない。名門校の先生方は、そう口をそろえます。

 おおたとしまさ :育児・教育ジャーナリスト

最終更新:9/30(月) 6:10

『東洋経済オンライン』(2019/9/30)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190930-00304900-toyo-bus_all


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