2019/12/3

安倍を倒そう!(554)<『画家たちの戦争責任』(北村小夜著)(3)>  X日の丸・君が代関連ニュース
<転送歓迎>(重複ご容赦)・「都教委包囲首都圏ネットワーク」、・「新芽ML」、・「ひのきみ全国ネット」、・「戦争をさせない杉並1000人委員会」の渡部です。

 『画家たちの戦争責任』(北村小夜著)(1)に関して、▲ 千葉の近さんから以下のようなメールがありました。
戦争協力を拒否した画家もいました
小人物の藤田嗣二などは敗戦後も戦争責任の追及を恐れて日本に戻らなかった人で、ボクは嫌いです。
猪熊弦一郎(1902〜1993・高松生まれ)という画家の立派な美術館が香川県丸亀駅前にあり、去年、観に行きました。
日本の抽象絵画の先鋭だった人で、戦争画も書いたことがありますが、消極的に戦争協力を拒否した人です。昔の三越の包み紙のゆがんだ「ひょうたん」のようなデザインをした人でもあります。
 私は割愛しましたが北村さんの本にも、次のように述べているところがありました。


しかし時流に抵抗した画家もいる。松本竣介は「芸術家としての表現行為は、作者の腹の底まで染み込み肉体化したものに限り、それ以外は表現不可能」と言って戦争突入に抗し、靉光は時局の不安感情を表現した「眼のある風景」を画いている。
 【2、そのころの子どもは、親より教師より熱心に戦争をした】
 では、北村さんは、次のようなことを述べている。
満州国建国宣言の年に小学校入学し、満州の兵隊さんに「サムイナカ ヒゾクトウバツ ゴクロウナコトト オモイマス」など、せっせと慰問文を書いた。
次の年、1933年には明仁が誕生した。・・12月23日早朝、市役所のサイレンが鳴った。・・興奮する大人に交じって私もバンザイを叫んでいた。
間もなく、「皇太子さまがお生まれになった」と「昭和の子ども」が表裏になったレコードが売りに出された。
あちこちで祝賀行事が行われた。私たちは・・・「皇太子さまがお生まれになった」に合わせて踊りを踊った。(歌詞も紹介されているが割愛します:渡部)
 その後、4年生(教育勅語を覚えなければならない)、5年生(2・26事件起きる)、6年生(日中戦争で急速に国民総動員体制になり入試も様変わり)などの事が述べられ、高等女学校2年生になった1939年には、「青少年学徒ニ賜リタル勅語」が下された。
その時の様子にについて北村さんは次のように述べている。
宮城を遙拝して校長が厳かに奉読するのを、こうべを垂れて聞いた。
一段と緊張を強いられたような気がした。
覚悟はできているという気もした。自分の肩に手を置いて
「汝等青少年学徒の双肩に在り」「汝等青少年学徒の双肩に在り」と呟いた。
 また、次のようなことも述べている。
修学旅行は、それまで紫丸で瀬戸内海を渡り、京都・東京から日光までというコースから九州一周に縮小された。最後に宮崎の「八紘一宇の塔」で戦勝祈願をした。
日々の暮らしはだんだん追いつめられていたが私の意気は軒昂であった。
(この後に彼女の軍国少女ぶりが語られるが割愛します:渡部)
 そして、1941年12月8日、対英米宣戦布告のラジオ臨時ニュースを聞いた時の様子を次のように述べている。
予想していたことではあったが、”ヤッター”と思った。
あちこちから自発的にバンザイを叫ぶ声が聞こえた。
このニュースは軍艦マーチや愛国行進曲を挟んで何度も伝えられた。
・・・・
当日は期末試験日で科目は英語であった。
学校に着くとあちこちで「敵性語を学ぶのはやめよう」「英語の試験はやめてもらおう」という相談が始まっていた。
 その後、彼女のボーイフレンドとの別れについて次のように述べられている。
彼が戦死して靖国に祀られる、私が喪服を着て額づく、それでは嫌だ。
私も靖国に行かねば。女でも靖国に行くにはと考えた。
調べると女性で祀られている人に従軍看護婦がいた
そうだ日本赤十字社に行かなければと決めた。
母はもちろん家族は大反対であった。
進学の推薦をしてくれていた教師も反対したが私の決心は固かった、
固かったというより周りが反対すればするほど値打ちのあることに思えて決心は固まっていった。
 その後戦局は転換し、1942年4月には東京に初空襲、同年6月にはミッドウェイ海戦での敗退、翌1943年5月にはアッツ島玉砕、山本五十六の戦死、などが起きてきた。
 しかし、人々は「撃ちてし止まん」「海ゆかば」などを歌い、「悔し涙は流してもめげてしまうことはなかったのではないか」と北村さんは述べている。

 そうした中で彼女は、1943年の9月に東京都美術館で開かれた国民総力決戦美術展に藤田の「アッツ島玉砕」を見るために制服を着て訪れ、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」を唱えながらその前に立った。
 「その場にいる人は皆、『仇を討たなければ・・・』と感じたに違いないと思った」と彼女は述べている。

 また、「敗色が濃くなればなるほど私は反撃の思いに自分を奮い立たせ、その高揚は敗戦まで揺らぐことはなかった」とも述べている。

 その後彼女は、
 「1944年看護婦養成所を卒業してマニラに派遣される予定であったが、もうそこへ行く手段はなく、急遽欠員補助として満州に行った。1944年10月であった。」

 次回は【3、戦争画を一挙公開し、議論をすすめよう!】です。

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