2020/1/21

なぜ、ここまでずさんともいえる改革が文科省で進んでいたのか  ]Vこども危機
 ◆ 強引すぎた「大学入試改革」
 ・・・その断念から考える「日本の難題」
(現代ビジネス)


 ◆ なぜ無理な入試改革が進んだのか
 2019年11月の大学入学共通テストにおける英語民間試験の導入断念につづいて、12月には国語と数学の記述式問題の延期が決まった。

 様々な批判を浴びているが、萩生田光一文部科学大臣の決断に敬意を表したい。
 というのも私もまた大学に勤務していて、一連の入試改革については疑念疑問を内心抱きながらも、文科省の引いたラインに黙従してきた一人であったからだ。
 口には出せないが、今回の改革がここで中止となったことで、ほっとしている関係者は多いと思う。

 もちろんそのために準備してきた受験生には気の毒だが、英語四技能も、記述式を解く力も、大学において、社会において、さらには受検一般において必要な力だ。身につけておいて損は一切ないものだから安心してほしい。


 問題は、今となっては無理押しに見えるこの改革が「なぜ進んできたのか」である。
 それも大学という、ある意味では知の集積を誇るべき現場を舞台にして。

 ここでは、自己反省を込めてこの事件を振り返っておきたい。
 とともに、この問題から見えてくる令和日本の政治的課題について、私見を述べたいと思う。つまりは安倍政権後の、次の政権の課題がここから見えてくるということである。

 文部科学省が進めてきた大学入試改革――。
 このうち、国語と数学の記述式問題の延期については、大学そのものは直接かかわらない案件であり、私自身にもとりあえずの責任はないといえる。

 これに対し、英語の民間試験の導入は、各大学で、自らの意志で主体的に進めてきた形になっている。
 それゆえ、一部の大学では民間試験の導入に否定的な立場を表明し、一時は導入しないことを決めていた大学もあった。
 しかし最終的にはほとんどの大学が民間試験の導入をのみ、大臣がストップをかけなければこのままスタートするところまで改革は進んでいた。

 なぜこれほどまで、全国の大学のほとんどで、民間英語試験の導入が決められていったのか。
 いまそこに、前大臣の圧力が取り沙汰される報道もなされているが、私には次の二つの問題が大きいように思える。


 ◆ 「文科省が進めているのだから大丈夫」

 第一に、「この改革は文科省が進めているのだから、大丈夫」という思い込みである。

 私の専門は社会学である。民間英語試験の導入についてはたしかに最初、「えっ」とは思ったが、当然それは、英語学や教育学などの専門分野の議論がつくされてでてきたものと解釈していた。

 今回露呈した地域間格差などは私の専門領域でもあるのだから、「お前はなぜその時、専門家としてそのことを指摘しなかったのか」と読者のご批判を受けそうだが、そこは私だって一個人。

 この改革は中教審で審議し、文部科学省が旗を振って出てきたものである。そこは当然、問題点はすべて検討しつくされ、かつそれがクリアされて大学にきているものと思い込む。そう思うのが当たり前ではないだろうか。

 それがフタを開けてみれば、多くの問題が未解決どころか十分な議論もなされてもいなかった。大学関係者の多くが、「いったいなぜ?」と狐につままれたような気持ちでいるはずだ。

 結局、あの時、勇気を出して批判していた人たちこそが正しかったということになるが、それもごく一部であり、あの東大でさえ最後は折れ、民間試験の活用に転換していた。
 経緯はどうあれこの改革にはみな乗っかっており、現大臣の決断なしにはもはや止められない流れであったことは間違いない。

 だが、いったいなぜ文科省で、ここまでずさんともいえる改革が進んでいたのか

 考えてみれば、霞ヶ関の各省庁・官僚たちは、本来こんなかたちで仕事をする集団・人々ではない。いや、現行の文科省だって、基本的には着実、誠実に、石橋をたたいて渡るようなやり方で、今もこの国の文部科学行政のあるべき姿を調整しているはずだ。

 それがなぜ入試改革でこんなことが生じたのか。

 この点については、もう一つの改革、国語の記述式問題の導入について私が感じていたことをあげ、第二の問題点として指摘してみたい。


 ◆ 「記述式問題」がもつ機能

 私は国語の専門ではない。しかし、これまでも小論文や総合問題の作成・採点には携わってきたから、この改革の問題性はよくわかる。
 記述式問題の採点は難しいのである。
 採点は簡単にはいかない。慣れが絶対に必要だ。

 答案には、文字がきちんと書けていなかったり、誤字脱字も様々ある。その判別さえ難しいことも。
 結局は、形式的なこと以上に、キラリと光る回答や、明晰な分析力、あるいは文章力など、その受験生がもっている人間としての力を評価できるかどうかが重要になる。
 そうした人間の力はリジッドに採点できるようなものではない。やはり最後はセンス(感覚)で評価していかざるをえない。

 センスというと、いい加減に採点しているように思われるかもしれない。
 ところがこのセンス、一定のスキルをつむと、採点者の間ではほぼ共有できるものでもあるのだ。

 不思議だが、誰が採点してもだいたい同じような点数になる。人によって採点がズレる答案ももちろんある。だがそこにはまた、そのズレにそれなりの意味があり、何らかの長所とともに欠点も持っているものなのだ。私たちにはそれがわかる。なぜか。

 大学教員は、日々、そうした鍛錬をつづけているからである。
 学生たちの文章はもちろん、学術論文の査読もおこない、自分自身の論文や文章の推敲もふくめて、毎日が採点業務に近い作業の連続なのである。

 それを大量に、大学教員でもない人々を動員してやる? それは無理だろう――と、記述式の作問や採点に携わったことのある人なら誰もがそう感じていたはずだ。

 さらに次の点も重要である。

 採点者のセンスが採点にかかわってよいのは、二次試験という、最後の最後、その受験生をとるかとらないかを決める段階においてだからである。
 受験は、当確のボーダーを超えるか超えられないかで決まる(だから最高点とか最低点とかは基本的に問題にならない)。

 受験生から見れば、そこで1点でも多くつけてほしいということになるが、これを採点する側から見れば違う世界になる。

 採点する側はボーダーラインを明確にするために、受験生の評価に差をつけなければならない。

 力のある学生には全員入学してほしいが、定員の関係でそれができないから入試をするのである。そのボーダーは適正でなければならないが、しばしばそのラインには同じような力の学生が並んでいる。

 その一人ひとりの力の差を適切に評価する採点ができるのも――そう大学が自信を持って入試結果を提示できるのも――記述式だからこそなのである。

 二次試験を多くの大学がマーク式ではなく、手間暇のかかる記述式で行うのは、受験生の力を細かく見てその差を的確に差異化し、判断したいからだ。

 そしてそうした判断が、少なくとも我々プロの手によれば適切に行われうるのだと確信しているからでもある。

 これに対し、一次試験とは、受験生が自分の学力をまずは全国共通の問題で観測し、全体の中でどのあたりにいるのかを確認するとともに、そこでとれた点数で(挽回のチャンスもふくめて)自分のいきたい大学・学部のボーダー突破の可能性を見極め、的確に受験校を設定するためのものである。

 それはまた、自分の学力がまだ届かない大学の受験にトライするリスクを回避するためでもある。そこに一次試験の機能はあるのだ。

 それには当然、マークシート式のデジタルな測定が適している。採点が曖昧では困るからだ。

 一次試験は選択式でデジタルに。これに対し、最終決定の二次試験は記述式のアナログで
 定員によってはそれができない大学もあるが、国公立大学の多くがこのやり方を採用してきたのには、ちゃんと理由があるわけだ。その記述式を一次試験に導入するって? ちょっとまてよ……

 と、多くの大学関係者が思ったはずだし、私もそう思ったと続けたいところだか、実はそうは思わなかった。そして多分、多くの大学関係者も同じだったと思うのだ。

 それはなぜか。それがここで指摘したい第二の問題である。


 ◆ 「文科省に逆らっても仕方がない」

 このとき私はこう思った。論理的にはそうだが、「文科省に逆らっても仕方がない」と。

 「おかしい」と抗議しても仕方がないという以上に「文科省がそういっているのだから、もうどうにもならない」という諦念である。
 そして実はこの諦念こそ、一連の改革に対して大学が感じていた最も重要なことだったのではないかと思うのである。

 このこともまた、大学に関わりのない人が見れば、「それは無責任だ」と思うかもしれない。

 だが、これもこの間の事情をしっかり認識してほしいのである。この無責任体制、なぜそうしたものが大学の中に出てきているのか。

 大学、とくに国立大学は、この十数年間、文科省による大学改革にさらされてきた。国立大学は国立大学法人に。研究費の競争化、任期制の導入、FDにSD、COEにイノベーション――大学のありとあらゆる面に様々なメスが入れられてきた。

 しかもそうしたことで、大学に当初目指したような国際競争力がついたのならばまだよい。だが実際には、改革を進めれば進めるほど、研究・教育以外の業務が増え、日本の大学の研究力・教育力はむしろ着実に転落してきた。息が詰まるような環境の中で今、大学の教育・研究は行われている。

 多くの研究者が実感しているのは、この20年ほどの大学改革は失敗だったのではないかということである。

 しかしながら、この間に強められた文部科学省との力関係の中で、その失敗の責任さえもが大学にむけられている。大学は、この間の改革の評価さえ論じることができない立場に追い込まれているのである。

 結局、大学改革の結果として現れてきた確実な成果とは、大学に対する文部科学省の絶大な権力の確立だったといえる。大学にとって「文部科学省が言っているのだから仕方がない」は、倫理的にどうこうできるものではなく、現実的なパワー(権力)の問題なのである。


 ◆ 誰のための入試改革だったのか

 だが――問題の核心はさらにその先にある。
 これだけずさんな入試改革。一体誰が何の目的でこんなものを強引に進めていたのか。

 こう「問い」を立ててみたときに、まず気がつくのは、それはもちろん文部科学省のためではないな、ということだ。

 霞ヶ関の各省には、各省の「省是(しょうぜ)」ともいうべきものがある。
 省としてのミッションがあるとともに、これは絶対にやっていけないということも厳然としてあるということだ。

 文科省にとっては、受験が不正確に、あるいは不平等に行われることこそ、絶対にあってはならないことだ。その省是を越えるような無理な改革が今回、進んでいたことになる。これはもちろん、文科省自身が望むことであるはずがない

 だとすれば、それはやはり政治からの強制になるのではないか――ということだが、これも考えてみると、今回、安倍内閣の中枢にいる萩生田大臣がその進行をストップさせたのである。

 無理なゴリ押しは、政権運営にとっても望むものではなく、むしろ今回の改革は遂行する方が危険だと判断したことになる。

 だとすると、この入試改革、無理に進めても得するものは誰もいないということになるわけだ。

 結局、問題は、なぜこんな、誰も得をしない、ずさんともいえる改革が、実施寸前にまで無理押しで進んでいたのかになる。それも、もし仮に実施していたら、政権運営にさえ悪影響が及びかねないような状態で。

 私たちはおそらく、こう議論を進めなくてはならない。

 なぜこんなものが進んでいたのか。

 それはやはり、権力が絶大化しているがゆえにではないかと。

 その権力とはもちろん、大学が直接、向き合っている文科省ではなく、その向こう、政府であり、官邸であり、安倍晋三内閣であるということになるが、問題の核心はさらにその先にあるということだ。

 要するに、官邸の周囲で生じた声が、その声の主の思い以上の絶大な力を行使するようになってきており、そうした声が過剰に政治化され、政策化されるとともに、その政策に対する異論や反論は一切起きない、問題点の整理やリスクの排除などがなされにくくなっているということだ。

 いや、こうした異論・反論の排除は、その末端にまで行き渡っており、この現象は中枢だけのものではない。そこが最も重要なのかもしれない。

 この入試改革では、その現場である大学においてさえ、批判の声は少数だった。そのことよって、本来、政策化に伴って現場からあがってくるべき声があがらず、問題点が放置されたまま政策だけがただ実施化される――まさにその寸前までいっていたのが今回の入試改革であったといえる。


 ◆ 過剰集権がもたらすもの

 このように論じてきて思うのは次のことだ。
 安倍政権の「一強」がいわれて久しい。
 だがもう本当に、この強権体制を解かないと、政治が主導することさえ、まともには動かなくなっているということだ。

 おそらくこの入試改革は氷山の一角で、いろんな局面で同じようなことが起きているのではないか。

 政策が標的とする現場で、強い政権への事なかれ主義、責任転嫁が進んでいる。

 現場として、「本来こうあるべきだ」「こうでなければ困る」よりも、「反対しても仕方がない」「逆らわない方がよい」が強くなっており、協力するにしても「やったふり」を装ってさえいる。

 それゆえ政権にとっては、政策が実現しているつもりでいたら、あとになってみれば「真面目にそれをやっていなかった」ということさえ生じており、今回のように、実施寸前でそれを急遽、政治主導で止めなければならないということが現れ始めているということだ。

 強力な中央集権体制は必ず腐敗する。安倍政権が駄目だとかそういうことではない。強力な体制には必ずそうした欠落が生じるものだ。

 それでも現行の政権は憲法改正をめざしているだけで、特段何かの政策実現を志向したものではないから、せいぜい森・加計や桜を見る会程度ですんではいる(とはいえこれでも十分に、公文書が次々と消えるなどの内政崩壊を示しているのではあるが)。

 しかし、もし同じようなことが外交や軍事、経済領域で起きれば、国民全体の暮らしに与える影響は計りしれない。この状態はともかく早く解かねばならない。

 他方で、私たちはもうすでに、この長期政権を観察して、今回の権力強大化を引き起こした原因がわかってきてもいる。

 それは第一に小選挙区制であり、第二に内閣人事局がもつ人事権であり、そして第三に首相による解散権の乱用であった。
 これらが相互に絡まり合って、安部一強体制を支えてきたと、すでに何度もそう報じられてきた。権力の強大化はある意味でこの政権の実力ではなく、構造的制度的に生じたものだと。

 私たちはもういい加減に、現行の政治体制が持つこうした問題点を直視して、その改善に手をつけなくてはならない。
 すでに来年に向けて、報道では次の総理は誰なのかが噂されている。

 この入試改革の顛末を見ていて思うのは、次の政権には、自らの政策内容を提示し、実施する前に、先決でやらねばならない課題があるということだ。

 それは、首相および内閣に集まりすぎた権力をどう元に戻し、どのようにしてまともな政治・行政運営の体制を取り戻せるのかである。

 怖いのは、次の政権が、今の政権と同じ環境の元でさらなる政治運営を行うことである。

 絶大な権力を、間違ったかたちで振るわれれば、この国の未来は危うい

 次の政権には――それが今の与党であれ、野党であれ――まずはこの政治体制の健全化、自浄化装置の取り付けを第一の政治使命としてもらわなくてはならない。

 そしてそれを1年以内で実施した上で速やかに解散し、新しい体制で新しい政治運営を行う政権を、あらためて選挙で選ぶという段取りが理想だし、必要だろう。

 問題は、それほどの危機感を持って、この数年の政権運営が持っていたリスクを国民が感じていたかということである。この国の、一見みえない危機に警鐘をならす意味を込めて、この年の暮れに自己弁解にも似たこんな小論をしたためてみた。

 令和2年がよい年になればと真に願う。

山下 祐介

『現代ビジネス - Yahoo!ニュース』(2019/12/30)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191230-00069477-gendaibiz-soci



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