2020/3/29

特高の犠牲者こそが、平和・人権・民主主義の今の日本を作った真の愛国者  \増田の部屋
 ◆ 特高に虐殺された西田信春をご存じですか?
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2月11日に発売される「西田信春−−甦る死」=津島史人撮影

皆様
 こんばんは。増田です。これはBCCでお知らせしています。重複・超長文、ご容赦を!

 2月11日に刊行された評伝『西田信春―-甦る死』(著者:上杉朋史、学習の友社、A5判335ページ。1500円 税別)を読みました。名前はどっかで聞いたことがあるような…という感じだった「西田信春」という人物について、初めて詳しく知りました。

 西田は、小林多喜二と同じ北海道出身(西田は新十津川、多喜二は小樽)で、同じ年(1903)に生まれ、同じ年(1933)、同じ月(2月、多喜二は20日、西田11日)に特高警察(多喜二は築地警察署、西田は福岡署…現福岡中央署)によって虐殺されたのでした。


 多喜二は昼に捕まり、午後7時45分には死体にされていました(Wiki)。
 西田は10日昼に捕まり、11日未明には死体にされたのです。
 どれだけ、凄まじい拷問が繰り返されたのか…

 解剖時、特高刑事が「頑固で何も白状しないので、足を持って、二階から階段を上から下、下から上へと引きずり上げたり下げたりして、四、五回やったら死んでしまった」と説明したそうです。

 多喜二はプロレタリア作家として有名人物だったせいか、遺体は自宅に返されてきたのですが、西田の方は変名で活動していたこと、多喜二とは違い無名の活動家だったことをいいことに「氏名不詳の傷害致死被害者」として解剖された後、「病死」と鑑定され火葬後、市の共同墓地に埋葬されたらしい、という非道がまかり通りました。

 両親と妹は息子・兄の死も知ることができず、待ち続けていましたが、父は1949年、母は1953年に亡くなっています。西田の親しい友人で共に活動したり同居したりしていた中野重治や石堂清倫の調査で、妹さんが兄の死の真相を知ったのは1958年のことだったと言います。

 著者の上杉さん…元高校教員で、先祖と同じ新十津川村出身の西田を知り、がん闘病をしながら本書をまとめて亡くなられましたので、これが遺著…によれば、西田は1929年の共産党一斉検挙の4・16事件で捕まっており、保釈中に逃亡して九州共産党再建活動中に逮捕されたのだから、指紋も顔写真もあり、警察が西田信春だということを特定できなかったはずがない、とします。

 本年2月9日付毎日新聞に本書刊行について記事がありました。有料なので最初しか読めませんが…
https://mainichi.jp/articles/20200208/k00/00m/040/252000c
 ◆ 小林多喜二と同時期に拷問で死亡
   無名の活動家が生きた時代とは 11日に評伝刊行

 戦時色が強まっていた1933(昭和8)年、作家・小林多喜二の拷問死の直前に、やはり特高警察に検挙され、福岡県で死亡した社会運動家がいた。北海道出身の共産党員、西田信春(死亡時30歳)。
 散在していた資料を、がん闘病を押して収集した同郷の元高校教諭が亡くなる直前、初の本格的な評伝にまとめ、無名の活動家の生涯に光を当てた。専門家も高く評価する著書は西田の命日とされる2月11日に刊行される。

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 本書に、西田が4・16事件の獄中から母宛てに出した手紙(1930年5月20日)が紹介されています。
 「私をあれほど愛して育ててくだされ、大学まで卒業させ、私の将来の成功と立身出世をあれほどまでに待って居られた年をとられた御両親に、私が今に至って大きな御心配をかける親不孝の罪は幾重にもおわび致します。もちろん私は私のおこなひが今の世の中では、親兄弟は云ふにおよばず、親るいの人達にも大へん迷惑をかけることも存じて居りましたが、労働階級のあはれな人々のために、一身をささげ様と決心したからには、どうとも致方なく、まじめに生きて行くにはこの道を歩むより以外に道はなかったのです。」
 一高から東京帝大と進み、望めば、どんな立身出世もできたのにもかかわらず、「労働階級のあはれな人々のために、一身をささげ様と決心し」「まじめに生きて行くにはこの道を歩むより以外に道はなかった」西田信春。
 治安維持法の下で、どれほどの西田信春や伊藤千代子http://tiyoko17.org/がいたことか

 本書には「共産党中央委員の上田茂樹は(1932年)四月二日に検挙され、その後行方不明となった(今日に至るまでその消息は不明のままである)」という事実も上げてあります。
 どこかで特高に虐殺され、遺体さえ、待ち続ける家族にも返さぬまま焼却し、無縁仏としてどこかに埋められているのでしょう…何という非道・残虐…

 彼ら特高の犠牲者こそが「民主主義と基本的人権・平和主義を求めて、自らの命を懸けて、無民主主義・無基本的人権・戦争主義の大日本帝国と闘った真の愛国者」であり、「現在の日本国の礎」です!

 しかし、敗戦後も、こうした殺人者たちがシャアシャアとノウノウと日本社会の支配層として生き続けたのです。
 「多喜二死亡時の警視庁特高部長は安倍源基(戦後、自由民主党政務調査会治安対策特別委員会の中心人物として活動)で、特高課長の毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部山県為三(戦後、スエヒロを経営)Wiki」

 2017年の共謀罪法審議の時、当時の金田勝年法相は6月2日の衆院法務委員会で、共産党の畑野君枝議員からの質問に以下のように答えています。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119305206X01920170602&current=1
 「治安維持法は、当時適法に制定されたものでありますので、同法違反の罪に係ります勾留、拘禁は適法でありまして、また、同法違反の罪に係る刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて適法に行われたものであって、違法があったとは認められません。したがって、治安維持法違反の罪に係る勾留もしくは拘禁または刑の執行により生じた損害を賠償すべき理由はなく、謝罪及び実態調査の必要もないものと思料をいたしております。」

 著者の上杉さんは「あとがき」に以下のように書いています。
 「私が、『西田信春とその時代』、とりわけ昭和初期の時代背景にこだわって描こうとしたのには理由、動機がある。
 私自身がその『晩年』を生きる今日の日本の政治状況が、西田の時代ときわめて相似的に映ずることへの危機意識が私のなかにあるためだ。
 とりわけ『戦後レジームからの脱却』を掲げて二〇二一年に再登場した保守長期政権の下で、現代的に仮装された『戦前復帰』ともいうべき諸施策が着々と、しかも強行的に押しすすめられている。
 国民の『知る権利』など民主主義の根幹を脅かす恐れがある『特定秘密保護法』が強引に国会を通過した(二〇一三年一二月六日。二〇一四年一二月施行)。
 それは、日露戦争前の軍機保護法やアジア太平洋戦争前の国防保安法に擬せられるほどのものである。」
 そして、今、コロナ禍に乗じて、アベシンゾー首相に「緊急事態宣言」まで出しうる権力を与えるところまで来てしまった日本社会があります。

 ぜひ、あの無民主主義・無基本的人権・戦争主義の大日本帝国と命を懸けて闘った「無名の活動家・西田元春」を見事に甦らせた本書を読まれますよう、お勧めします!
 (全国の書店やネットでご注文を!)
タグ: 増田都子


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