2020/7/11

新学習指導要領の高校国語科「日本中の高校生が楽しくない国語の時間を過ごし、本を読むことが嫌いになる」  ]Vこども危機
  《教科書ネット21ニュースから》
 ◆ 高校で文学を教えられなくなることによってもたらされるもの
   〜高等学校の「国語」教育が「文化」や「教養」から遠ざかった

松山 央(まつやまひろし・都立高校教員)

 「本を読む楽しさを思い出せました。」
 「小説を読むことが楽しいと感じるようになりました。」
 「あらゆる作品を読んだり見たりする際に、より深く考えることが多くなり、本が好きになりました。」
 「現代文B」という科目の授業で、中島敦の「山月記」漱石の「こころ」を学んだ2年生の言葉である。
 「山月記」や「こころ」を読んで、彼らは文学を学ぶことの「喜び」を知ったのだ。

 ◆ 文学を教えるな、文法を教えるな、実用的な文章さえ読めればいい


 2022年度から実施される高校の新学習指導要領の国語科では、今までの「国語総合」(現代文・古文・漢文)に代わり、「現代の国語」・「言語文化」(それぞれ2単位)が1年生の必修科目となる。
 2・3年生では「現代文B」・「古典B」などに代わり、「論理国語」・「文学国語」・「古典探求」・「国語表現」というそれぞれ4単位の選択科目が置かれる。

 昨年8月に行われた都教委の新学習指導要領についての説明会では、「現代の国語」・「論理国語」について、実用的な文章だけを扱い、「文化的に価値のある文章を扱ってはいけない」という説明があった。

 センター試験に代わる大学入学共通テストの試行テストでは、契約書や校則の理解度を試す問題が出題された。
 書かれていることが正しいという前提の問題である。そのようなことを授業で行うことが強制されるのだ。
 架空の契約書、架空の校則、架空の商品の説明書。そんなものを読んで何が楽しいのだろう。

 日本中の高校1年生はそれを最低週2時間は強制されることになる。そして多くの高校では、2年・3年で「論理国語」を設定し、「文学国語」は設定されないだろうと言われている。
 日本中の高校生が楽しくない国語の時間を過ごし、本を読むことが嫌いになる

 さらに都教委の説明会では、「言語文化」で古典を扱う際、「文語文法を体系的に教えてはいけない」と説明された。
 私たちが今使っている日本語はここから生まれてきたのに、それを体系的に学ぶ機会が必修科目から失われてしまう。
 文学を教えるな、文法を教えるな、実用的な文章さえ読めればいい、というのは、「『教養』というものを全く認めない」ということである。


 ◆ 自国の文化にアクセスするリテラシーを身につけざせることが最も重要

 残念ながら、高校生の日本語能力はここ数年で劇的に低下している
 「文学は趣味で読めばいい」と考える人もいるが、多くの高校生にとって自力で「山月記」や「こころ」を深く読むことは不可能に近いのが現状である。
 授業で文学を扱わないということになれば、文学の楽しみに出会う可能性が失われるのだ。

 「他教科の教科書さえ理解できない生徒がいるから、教科の内容を実用的文章だけにする」という改変で、「論理的思考力」や「表現力」が向上すると考えるのはあまりに安易ではないだろうか。
 難しい教材にもじっくりと向き合い、深く考え読み解いていくことによって「論理的思考力」や「表現力」が向上するのではないか。

 そして自国の文化にアクセスするリテラシーを身につけさせることこそが高等学校の「国語」教育において最も重要なことではないのか。
 そのことを理解しない新学習指導要領の起案者は、この改革が何をもたらすかという想像ができないのだろうか。それとも自国の文化などどうでもいい、単純な実用的文童の意味だけわかればいいということなのか。


 ◆ 心が豊かであるためには、言葉が豊かでなければならない

 2019年の「すばる」7月号の「インタビュー 変わる高校国語、なくなる文学一内田樹、小川洋子、茂木健一郎に訊く 伊藤氏貴」の中で内田樹さんは「英語教育」について、文法とか講読を減らして会話中心にする「植民地の英語教育」であると述べ、母語である日本語についてもそうであると言っている。
 読み書きは契約書レベルの実用的文章でいい。子どもたちに豊かな知性を持ってほしくない。もしそんな意図でこの新学習指導要領が作られたとしたら、本当に恐ろしいことである。

 今年2月11日にお茶の水で行われた講演会で内田樹さんが「大学のAO入試の自己アピールで一番多いのは吹奏楽スポーツの部活である」ということについてこのような例をお話しされた。

 −「バレーボール近畿大会6位」と書いてある受験生に「うちの学校にはバレーボール部がないので入学したらぜひ作ってください」と言うと、彼女は「何をバカなことを言ってるんだ」という顔をして、「もうこりごりです。もう一生分やりましたから」と言う。彼女がアピールしたいのは「3年間不快なことに耐えた」ということなのだ。

 吹奏楽部と書いてある受験生に「うちの学校には吹奏楽部がないので大学に入ったら吹奏楽部を作ってください」と言うと「何を馬鹿なことを言っているんだ」という顔をして「もうこりごりです」と言う。彼女たちは無意味耐性・苦役耐性の高さを評価してくれと言っているのだ。

 社会に必要なのはそれである。ここに日本社会の病の深さがある。
 即戦力として企業が要求する能力は無意味耐性・苦役耐性なのだから。
 上司から仕事を頼まれたときに「これ何の意味があるんですか?」と言ってはいけないのだ。−

 こんな話である。

 実用的な文章しか扱わせない授業を全員に強制することによって、吹奏楽やスポーツの部活に入っていない高校生にも「無意味耐性・苦役耐性」を身に付けさせることができるのかもしれない。
 そうすれば奴隷のような労働にも耐えることができる。

 偉い政治家たちだって漢字が読めない。でもそういう人たちを多くの国民が支持しているではないか。
 社会で成功するためには文学など教養など必要ない。そう考えている人達が改革を主導する。
 物事を深く考えたりしない。国が決めたことを、あるいは上司が決めたことを、正しいものと受け入れて思考を停止する。そういう人間が強制的に造り出される。
 そしてやがて国や上司が決めたことに反対したり批判したりする人を誹読中傷し罵倒する人たちがこの国に溢れる。

 かつて詩人の大岡信さん「心が豊かであるためには、言葉が豊かでなければならない」と言った。
 豊かな心の持ち主はこの国から消えてゆくことになる。

 今回の改革によって高等学校の「国語」教育が「文化」や「教養」から遠ざかったことだけは確かである。

『子どもと教科書全国ネット21NEWS 131号』(2020年4月)



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