2021/4/22

「私の教育活動」根津公子  X日の丸・君が代関連ニュース
 ◆ 私の教育活動と「日の丸・君が代」、そして裁判 (レイバーネット日本)
   根津公子


 私は1971年に江東区大島中に着任し、76年に八王子市に異動。城山小、80年から横川中、90年から石川中を経て、2000年多摩市多摩中、03年調布市調布中、04、05年立川市立川二中、06年町田市鶴川二中、07年都立南大沢学園特別支援学校、08年から都立あきる野学園に在職し11年定年退職となった。03年からは常に定数外の「過員配置」とされ、都教委は1年での異動を企んだ。立川二中とあきる野学園が1年ではなかったのは校長が都教委とたたかってくれたおかげだった。

 私の教育活動に対する都教委のはじめての処分が94年。そうした私を都教委は、01年に「指導力不足等教員」に仕立て上げようと、08年2月にはトレーナー着用で分限免職(?)を、08年には「11月には根津はいなくなる」ことを画策した。わずかながらに残していた、「教育の自由」を都教委が教員から奪い、教育の国家支配を強めた結果である。


 ◆ 1.私の教育観

 事実をもとに意見を出し合い、自分の頭で考え判断する営みが学校教育で行うべきこと。


 教員の仕事は、教科書が隠す事柄についても生徒たちが知り考えることができるよう資料を提示することだと私は思う。教科書が隠す事実を知ることによって、生徒は自分が住む国の全体像がわかり、政治の在り方を考え、批判的思考力が育つと思うのだ。

 私は短大に入学し政治的課題が書かれた立て看板を見ても意味が分からず、何冊もの本を読んではじめて日本の侵略について知った。それまで私は、父は戦争に行ったけれど死ななくてよかったとしか思っていなかった。父が戦死しなかったから私は生まれた、しかし、父たちが侵略した国々では日本兵によって命が奪われ、生まれるはずだった子どもたちが生まれなかったことに愕然とし、父を問い詰めた。そして、日本兵を父に持つ私は、戦争責任(のちには戦後責任も)を受け止めて生きていこうと漠然とだけれど、決意した。と同時に、なぜ学校は侵略の事実を教えてくれなかったのか、事実を教える教員になろうと思い、教員になった。この体験が、私の教育観をつくったのだった。

 担当する家庭科では、食品公害・農薬汚染や女性差別など、教科書が隠す事実を知らせ問題提起した。八王子の中学校に移った80年からは技術家庭科を別学ではなく、男女で学ぶことを実現。国連の女性差別撤廃条約批准に際し、また、共学家庭科を求める市民運動によって文部省が共学に変える、13年前のことだった。並行して、同僚となった先輩教師に学び、学年での平和学習やひろしま修学旅行を行うなど、取組みを次々に広げていった。

 89年改訂の学習指導要領が「その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに国歌を斉唱するよう指導するものとする」と明記し、事実上の「日の丸・君が代」の強制が始まってからは、「日の丸・君が代」の授業を行ってきた。そこでは、国民学校の修身の教科書や日本の侵略について記述するアジア諸国の教科書、「意義」を示す文部省及び都教委文書を資料とした。「日の丸・君が代」を尊重する立場の話があると子どもたちの考えが深まると思い、校長に授業への参加を要請したが、一人として参加する校長はいなかった。  処分を受けた授業や行為もすべて、この視点から行った教育活動である。


 ◆ 2.「君が代」不起立処分以前に私が受けた処分

 4件の処分がなされた。これらは、「君が代」不起立処分取り消し訴訟で、処分を加重してよい「具体的事情」=「過去の処分歴」とされた。以下、時系列で挙げる。

 @94年3月(処分は4月)減給1月処分

 卒業式の朝、校長が職員会議の決定を反故にし、生徒たちが「校長先生、日の丸を揚げないで」「日の丸を降ろして」「降ろせ」と叫ぶ中、校長は生徒たちに目もくれず「日の丸」を揚げた。私は沖縄読谷高校の生徒が「日の丸」を降ろしたことで嫌がらせを受けたことが頭をよぎり、生徒たちに降ろさせてはならないと思い、また、「根津先生、降ろして」の声に応じて降ろした。職員会議の決定を反故にさせず、石川中の民主主義を護ることも私の頭にあった。 その「日の丸」を校長室に届けると、校長は再び「日の丸」を抱え掲揚台に走り、「日の丸」を揚げたので、私は再び降ろした。教頭は、校長の揚げた「日の丸」を写真撮影したのみ。やはり、生徒には対応しなかった。

 当時、東京の中学校の中で「日の丸」を掲揚していない学校は石川中と墨田区の1校だけで、校長は市教委からきつく「指導」されていたという。私たち職員は校長が職員会議の決定を守るよう、式当日も早朝から交渉していた。その中、校長は「日の丸」を抱え、掲揚台に走ったのであった。そうしたことも予想されたので、私は事実を生徒たちに知らせようと、前日の夜、模造紙に書いて張り出そうと用意していた。

 A95年3月(11月)文書訓告

 対象は、「2年2組の皆さんへ(保護者の皆さんへ) 職員会議の決定を踏みにじった校長先生の行為を私は決して忘れはしない」と題した学級だより。記載内容は、94年卒業式の朝、校長が揚げた「日の丸」を私が降ろした理由、昨日の卒業式の早朝、証拠写真を撮るためだけに校長が揚げた「日の丸」についての報告。

 B99年2月(8月)文書訓告

 3年生最後の家庭科の授業で、卒業に当たって私の思いを伝え、生徒たちに問い、意見交換をした際に使ったプリント教材。「かつて『指示待ち』今、教祖を『告発』」と題した、オウムの法廷での地下鉄サリン実行犯の一人・豊田被告の発言を報じた朝日新聞記事(97年)を紹介し、私からの問いを書き加えた。プリントはあらかじめ、校長にも手渡し、「問題があれば指摘してください」と告げていた。判決は、「入学・卒業式に日の丸を掲揚せよ、君が代を斉唱せよと、教育委員会から指導された全国の校長の言葉と同じに聞こえませんか」との記述は、「凶悪な犯罪を犯した者と…校長を、ともにマインドコントロールされたものとして同一視…校長の学校運営方針を批判するに等しい授業」であり「不適切であることは明らか。地方公務員法33条に違反する」。「訓告は制裁的実質を伴わず、法的な不利益をもたらさない」のだから「請求を棄却する」とした。

 2件の訓告も、1回目の「君が代」不起立処分が私の場合、減給6月から始まったことの理由の一つにされ、また、判決でも停職処分を適法とする理由の一つにされた。「法的な不利益をもたら」したのだ。

 校長は裁判で次のように正直に証言した。「PTAの、特に3年生の保護者の間では、原告の授業について、肯定的に、原告を擁護する方向でPTAとして動こうとしていた、こういう事実は知っていますね」との尋問に秋山校長は「知っています」。プリントを使った授業を受けた子どもたちの意見や感想についての尋問に、「私のところへ話に来た生徒については、根津先生の授業はよかったと、勉強になったと、そういう子が多かったです」。「あの授業は問題であると、よくわからなかった、あるいはこんな授業はひどい、そういった意見というのは出ていたんでしょうか」との尋問には「直接には聞いていないです」。卒業生が入場する直前に「日の丸」を校庭のポールに揚げたことについて訊くと、「卒業式が終わった後、2人の子が私のところに抗議に来ました」。「その子たちが精神的に傷ついたんではないかと感じましたか」と訊くと、「それは感じました」。私と佐藤さんが担当していた修学旅行実行委員会の平和教育については、「平和教育そのものについては、大変すばらしい取り組みもありますので、それについては評価しています。」「根津は、その実行委員会の指導も…あなたの目から見ても、非常に熱心に、かつ生徒もそれを熱心に受け入れていたということですね」と訊くと、「そうです。」

 生徒や保護者が裁判で陳述書を出してくれたが、判決はその思いを踏みにじるものであった。

 C01年1月〜(02年3月)減給3月処分

 多摩中での「従軍慰安婦」「同性愛者」の授業に端を発して、地域・保護者・生徒を巻き込んでの1年に亘る攻撃。都教委は多摩市教委・校長を使って私の授業を7月から9月にわたって観察・監視し、私を「指導力不足等教員」に仕立て上げようとしたが、失敗。失敗した都教委は、この期間中に校長の発した職務命令に違反したとして懲戒処分に切り替えた。「指導力不足等教員」に認定されなかったのは間違いなく、1年に亘る連日の闘いに大勢の市民及び弁護士が同行してくれたことが力になった。

 判決は、「平成13年7月に実施された市教委の授業観察でも、改善すべき事項が複数指摘されていたことからすれば、その改善指導のための協議会には自ら進んで出席すべきであった。しかるに、原告は、全くこれら改善指導を受け入れようとする姿勢を見せず、…その違反態様は教員としての自覚を欠くものであるといわざるを得ない。」と罵る。

 校長、多摩市教育長が行なった指導力不足等教員の申請については、「原告の指導力向上を図るべきされたものであって、原告を教育現場から排除するためにしたものではないから、教基法10条1項の禁止する『不当な支配』に該当しない。」「弁論の全趣旨によれば、原告に予定されていた研修の通所コースは週1日であり、教育現場から外すような効果もないと認められる。」と判じた。

 通常の申請は12月末に行われるが、私については年度途中の9月の申請。通常の申請まで待てないほど指導に問題のある者についての研修が「週1回」の通所コースであるはずがない。にもかかわらず、判決はこんな陳腐な創作までをも行なった。指導力不足等教員に認定されると、研修1年後の判定、2年後の判定がなされ、2年後も不合格となれば、受検して合格した場合には事務職への配置転換、そうでなければ免職とされる。2年後には合法的に免職に持っていくことができる制度であることに、判決は蓋をした。

 校長・多摩市教委は当初、「従軍慰安婦」「同性愛者」を教材にしたことが家庭科学習指導要領逸脱としていたにもかかわらず、判決は家庭科教育の第一人者である鶴田敦子・聖心女子大教授の意見書・証言の一つも採用せず、授業についての判断もしなかった。


 ◆ 3.東京の「君が代」不起立処分で私は

 03年、都教委は「教職員は指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」「児童生徒の席は正面を向いて座るよう設営する」などを規定した「国旗国歌に関する実施指針」どおりの卒業・入学式を各学校に強制し、「君が代」起立を求める校長の職務命令に従わない教職員を処分すると通達した(10.23通達)。これまでに延べ484人の教職員を処分してきた。

 私もその一人で、05年卒業式から09年卒業式まで毎回処分をされた。05年立川二中の卒業式で減給6月処分(一般には1回目の不起立は戒告処分だが、根津には「過去の処分歴」があるとして1回目の不起立で減給6月処分に)、同年同中入学式で停職1月処分、06年同中卒業式で停職3月処分、07年鶴川二中・08年南大沢学園養護学校・09年あきる野学園の各卒業式で停職6月処分とされた。卒業式処分発令が3月末日のため、06年からは毎年、4月1日から停職。したがって、入学式は停職期間中であった。

 03年時点で、「君が代」起立斉唱を良しとする教員はほぼおらず、大多数の教員はこれに反対していた。また、05年3月・4月に朝日新聞及び東京新聞が行った意識調査では60〜70%の都民が「君が代」処分に反対だった。10.23通達が出されたとき、とうとう攻撃はここまで来てしまったかと思いつつも、今度こそ大勢でたたかえると一方にわずかな「希望」を持った。しかし、現実は甘くはなかった。

 ◆ 4.なぜ私は起立を求める職務命令に従わなかったのか

 卒業式・入学式の主人公は生徒たち。したがって、「日の丸・君が代」についても、私は事実・資料をもとに自分の頭で考え判断できるよう授業を行ってきた。94年の卒業式の朝、校長の「日の丸」掲揚に生徒たちが抗議したのは、事実を知り考えたからだった。この後日談があって、私はその後の生徒たちの行動に大いに学ばせてもらい、自分の頭で考え判断するという営みの重要性がさらに分かった。この体験は、起立を求める職務命令を拒否する私の支えとなった。

 その後日談に触れる。「日の丸」を揚げたことについて生徒たちが校長に質問をしたところ、校長は「命令に従うのが校長の職務です。私の上司は教育委員会」「(生徒)700人が反対しても私は『日の丸』を揚げる。」と言った。その後、生徒たちは校長の言動を反面教師にして、自治による学校をつくっていった。卒業式での「日の丸」についても、「私たちの卒業式だから私たちがやる。先生たちは見ていて」と言い、校長を説得するに至った。生徒たちは学校にやるべきこと・自身の居場所があって、いじめも不登校もなかった。私はこうした生徒たちの日々の行動から、教育について実に多くのことを学ばせてもらった。

 石川中での生徒たちからの学びによって私は私の教育観でいいのだと思い、考える資料を提供するために、鶴川二中を除くどの学校でも「日の丸・君が代」の授業も行った。生徒たちから問われて、私は私の考えを話し、「『日の丸・君が代』については世論を二分する考え方があるので、どちらの意見も聞いて判断してほしい」と言い添えてきた。

 侵略戦争を反省するならば、それに使った「日の丸・君が代」は使ってはならないと私は考える。しかし、もしも私が「日の丸・君が代」に罪はないと考えたとしても、今のかたちで卒業・入学式に「日の丸・君が代」を持ち込むことには反対する。文科省・教育委員会は、「日の丸・君が代」について生徒たちに考える資料を与えず隠したうえで、「日の丸・君が代」を尊重する場に子どもたちを立ち合わせ、空気を読ませるからだ。都教委は「教員全員が起立斉唱すれば、会場全体が厳粛かつ清新な雰囲気に包まれる。それは無形の指導」だという。「無形の指導」とは、戦場に子どもたちを駆り立てた戦前・戦中の教育と同じに、空気を読ませ刷り込む調教であって、学校教育がしてはならないことだ。個の確立をめざし、自分の頭で考え判断する学びとは対極にある。

 「処分を避けるために、年休を行使するとか会場外の仕事に当たらせてもらったら」と、私は周りから言われた。当初は校長からも再三言われたが、それには応じなかった。私は校長に、「生徒も会場外に出られるのならば、私もそれに応じます」と言ってきた。教員だけが逃げられる。それは事実を隠すことであり、嘘をつくこと。自身にも生徒にも嘘をつくことは私にはできない・しない。間違いと思うことにはたとえ一人でも声をあげる。その姿を子どもたちに示そうとも思い、起立を求める職務命令に従うことはしなかった。

 私は停職中、校門前に1日中佇んだ。名付けて「停職出勤」。これも、生徒たちに対しての事実の提示であった。生徒たちは、「君が代」で起立しない根津に対して都教委が加える制裁を目にし、考えを深めたと思う。放課後の校門前は、その日の報告や「日の丸・君が代」について交流する生徒たちで溢れかえった。卒業生も立ち寄ってくれた。予期していなかったが、結果的に、これは停職中の私の授業となった。


 ◆ 5.「君が代」不起立裁判は

 12年最高裁判決は、判断基準に3点を挙げた。「起立を求める職務命令は儀礼的所作であり、思想良心の自由を間接的に制約するにとどまるから違法とはいえない」として、1回目の不起立・戒告処分を適法とし、2回目の不起立・減給1月以上の処分は重過ぎるとして違法とした。2つ目の基準が適用されて、私以外の減給以上の処分は取り消された。

 しかし、例外的に「学校の規律と秩序の保持等の観点から停職処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的事情がある場合は」重い処分も可とする基準を設け、私の06年停職3月処分を取り消さなかった。根津には「過去の処分歴」があり、そのうちの2回は「卒業式における国旗掲揚の妨害と引き降ろし、服務事故再発防止研修におけるゼッケン着用をめぐる抗議による進行妨害といった積極的に式典や研修の進行を妨害する行為」と決めつけ、また、「過去の処分歴にかかわる一連の非違行為の内容や頻度等に鑑みると」06年停職3月処分は適法であるとした。私については、05年の減給6月処分・停職1月処分も13年に出された最高裁判決が、同一の「過去の処分歴」を使いまわして処分を適法とした。同一の「過去の処分歴」によって、私の処分はこの後も取り消されないのではないかと思わざるを得なかった。

 しかし、07年停職6月処分は15年に控訴審で逆転勝訴となり、16年に最高裁もそれを決定した。良心的な裁判官に出会えたことが幸いした。08年不起立・停職6月処分では再び処分適法とされたので、09年不起立・停職6月処分の処分取消しは絶望的だった。その通りに09年地裁判決は敗訴だった。

 ところが、である。昨年3月に出された09年事件控訴審判決は逆転勝訴。これが第2小法廷に係属されたのが昨年10月1日。その通知を受けたとき、山口厚・木澤克之両裁判官が所属する第1小法廷でなくてよかったとは思ったが、まさか、第2小法廷がその控訴審判決を維持する決定を出すとは!まさかの勝訴に、私は最高裁からの書面を確認するまでは夢を見ているような錯覚に陥っていた。山口・木澤両裁判官は、安倍首相が従来の選任方法を反故にして選任した裁判官である。


 ◆ 6.停職6月処分を取り消した理由

 09年事件控訴審判決は、「停職6月処分は、…次の処分は免職のみであり、これにより地方公務員である教師としての身分を失うことになるとの警告を与えることとなり、その影響は、…身分喪失の可能性という著しい質的な違いを被処分者に意識させることになり、これによる被処分者への心理的圧迫の程度は強い」と判示。07年事件控訴審判決と同様、「次は免職」を意識させる心理的圧迫の強さを問題視した。そのうえで、一緒に係争している河原井さんの不起立と根津の不起立は異なるのかを問い、行為自体は変わらないと結論付けた。加えて、「過去の処分歴」は既に停職3月処分適法判決が具体的事情として考慮したので、それを再び具体的事情とすることはできない。また、停職6月処分を適法とした08年事件判決が具体的事情としたトレーナー着用についても、その後は着用していなかったのだからこれも具体的事情とすることはできないとした。したがって、停職6月処分は都の裁量権の逸脱濫用であり、違法と断じた。

 08年事件訴訟では都教委は、根津は「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」「強制反対 日の丸・君が代」というロゴが入っているトレーナーを、着用を禁じた校長の職務命令に違反して着用した。それは職務専念義務違反にも当たると主張し、判決もそれを是認したのだった。私は異動させられた養護学校で、担当した生徒がおむつでの排泄により肌荒れを起こしていたので、トイレでの排泄に変えてあげたいと思い、洗い替えのできる手持ちの服を着用したまでのことだった。職務命令を出すならば、都は作業着の支給をすべき、と思っていた。

 校長は私について、都教委から毎日の報告をあげるよう指示されていて、「トレーナー着用」を報告し、都教委から「指導・指示」を受けていたのは間違いない。毎日の報告については、立川二中の校長とあきる野学園の校長が、在職時に教えてくれた。

 都教委は、「君が代」不起立での免職は難しいと判断し、トレーナー着用を理由にして08年3月の卒業式を待たずに私を分限免職に持ち込もうとした。この時点で、私と同世代の教員2名が分限免職にされていた。いろいろな理由を寄せ集めれば、分限免職は難しくはない。08年2月1日、トレーナー着用の件で都教委は私を事情聴取した。大勢の人が都教委に押しかけ連日闘いを共にしてくれたことで、都教委は私を分限免職にすることに成功しなかったのだと思う。それで、その後の卒業式停職6月処分の理由にこれを加えた。08年度に私が異動させられたあきる野学園の校長が私に、「『根津は10月に着任して11月にはいなくなる(から卒業式は心配するな)』と都教委から言われた」と話してくれたことからも、都教委が根津免職を企図したことは明白だ。あきる野学園の校長は毎日の報告を「異常なし」と書き、都教委の「指導」が入ってもそれを貫いてくれた。それで都教委は、「11月にいなくなる」策に失敗したのだった。都教委は08年7月に、「度々職務命令に違反する」などの事由を列記した「分限事由に該当する可能性のある教職員に関する対応指針」を発していて、それを使うつもりだったのだと思う。

 話を戻そう。07年停職6月処分を取消した15年控訴審判決は、「自己の歴史観や世界観を含む思想等により忠実であろうとする教員にとっては、自らの思想や信条を捨てるか、それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られることとなり、…日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」と判示した。過酷な停職6月処分は間接的制約ではなく「実質的な侵害(制約)につながる」と憲法判断に言及してくれたが、09年事件控訴審判決は、そこまでは至らなかった。  しかし、両控訴審判決が「次の処分は免職のみ」だからとして、停職6月処分の心理的圧迫の強さを判示してくれたことの意味は大きい。停職6月処分が違法なのだから、免職はあり得ないということだ。このことは、大阪の「同一の職務命令違反(不起立)3回で免職」を謳う大阪府職員基本条例を廃棄したも同然と思う。「教育は200%強制」と言った橋下知事(当時)府政下で12年に制定した条例だ。大阪では、2回不起立した人には処分発令書とともに、「警告書」が出される。両控訴審判決は「地方公務員である教師としての身分を失うことになるとの警告を与えること」の問題点も判示する。免職はもちろん、「警告書」自体が違法なのだ。この条例に影響を与えることが、最高にうれしい。


 ◆ 7.戦後民主教育は

 「日の丸・君が代」の強制は89年に突如始まったのではない。戦後5年にして、政府は戦前回帰の教育、すなわち「日の丸・君が代」・天皇制を国体とした教育施策を打ち出し、それを徐々に進めてきたと思う。50年にはアメリカの反共政策を受けて、天野文相談話「各学校では…行事を催される…際、国旗を掲揚し、国歌を斉唱することもまた望ましい」がなされ、58年学習指導要領には「国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」と明記した。それは、戦後すぐに沖縄のアメリカ占領と引き換えに天皇裕仁の命と末永く続く天皇制・国体を護ることに精力を注ぎこんだ政府の、戦後教育に対する姿勢であった。「戦後民主主義教育」と久しく言われてきたけれど、そうではなかったと私は思う。

 日教組は「教え子を再び戦場に送らない」とのスローガンを掲げてきたが、「日の丸・君が代」については学習図書は発行したものの、「日の丸・君が代」被処分者を支援することは全くせずに今日に至る。70年には群馬県で「君が代斉唱」の際に「回れ右」を生徒たちに指示した侵略戦争帰りの教員が自宅謹慎の処分を受け、その後依願退職に追い込まれた。74年には鹿児島県の校長が自殺に追い込まれた。79年には「君が代」をジャズ風にアレンジして伴奏し抵抗した福岡の小弥さんが分限免職に、80年には生徒が「日の丸」を降ろしたことで担任教員が停職3月処分にされた。その頃から福岡では「日の丸・君が代」での処分が続出したが、日教組はそれも看過した。このように、日教組が被処分者を見殺しにしてきた現実が、89年学習指導要領の「日の丸・君が代」強制を容易にしたと私は思う。権力側はよく観察しているのだ。


 ◆ 8.「日の丸・君が代」強制の狙いは

 都教委は「『国旗・国歌の適正な実施』は…学校経営上の最大の課題であり、この課題の解決なくして学校経営の正常化は図れない」と言い、橋下府知事(当時)は「(『君が代』不起立)問題は、今の教育行政の病理の象徴で、ここを正せるかどうかが、今の教育行政のポイント。僕の組織マネジメント論の琴線に触れる問題」と言い、不起立処分をすることで最後の一人の抵抗をも許さず、教員の服従と学校組織の上意下達を徹底しようとした。

 不起立処分だけでは飽き足らず、都教委は職員会議での発言禁止まで通知した。教員は、職員会議での議論を通して互いに学び、教育活動に生かしてきたのに、それが奪われると同時に子どもたちに社会的・政治的問題について問いかけることもしなくなっていった。そうなれば、かつての「少国民」はたちまちのうちに生み出される。

 そのことを私はリアルタイムで体験した。06年度、私が異動させられた町田市の鶴川二中では、地元の自民党市議によって根津を都教委に返す運動が起こされた。生徒たちは、「ルールを守らないならば教員辞めろ」というキャッチフレーズを使ってその動きに巻き込まれた。学校は日常的に生徒にルールの順守を求めているから、このキャッチフレーズは「当たり」だった。生徒たちは正義感から私を罵倒し、私は階段から突き落とされたこともある。「日の丸・君が代」の強制はおかしいとか、都教委の処分は間違っているとかと捉えたその前年度までの生徒たちとは全く異なる対応をした。その違いはどこから来たのか。06年度の生徒たちは、自身の小学校の卒業式で「国歌斉唱」を体験し、それが当たり前となっていた。04、05年度の生徒の認識とは違っていたのだ。したがって、その当たり前のことをしない根津は「非国民」であり、いじめていい対象だった。また、同僚たちは私に好意的であったが、生徒たちの前ではその顔は見せなかった。第2のターゲットにされるのを恐れたのだと思う。このようにして、たちまちのうちに「少国民」はつくられると私は実感した。18歳選挙権を安倍政権が始めたのは、こうした若い世代が自民党に投票することを期待してのことだったとも思う。

 都教委が目指す「無形の指導」は、1%のエリートからこぼれる大多数の国民を従順にし、支配しやすくするためだと思う。象徴天皇をいただく日本国民は近隣アジア諸国民よりも勝るという優越意識を持てば、政府に反感を持ったり、生活苦から労働組合に結集したりしなくなる。そのためには政府は、侵略戦争について反省してはならないし、教材は天皇制につながる「日の丸・君が代」でなければならないのだと思う。

 昨年の卒業式は新型コロナによる全国一斉休校の期間であった。卒業式を実施するかどうか、実施する場合は三密を避けるための対策が懸案事項とされ、東京の卒業式は時間短縮や来賓の参加を取りやめた。しかし、都教委は一堂が会する体育館で「国歌斉唱」を行うことを全都立学校に通知し、全校がこれに従った。呼吸器をつけた生徒がいる特別支援学校もその例外ではなかった。都の教育委員の一人は医学博士だが、その委員も問題視したとは聞いていない。今年の卒業式は体育館で「国歌静聴」を実施するという。大阪府教委は一般には「国歌静聴」とするが、前後左右1mの距離をとれる場合は「国歌は起立して斉唱」とする通達を1月21日付で出した。都教委・府教委にとっては、命よりも「日の丸・君が代」が大事ということだ。


 ◆ 9.「日の丸・君が代」天皇制教育は国家支配の問題

 こうして見てくると、「日の丸・君が代」の強制と処分は、これを尊重できない・しない教員個々人の思想や信教の問題ではなく、この国の国家支配の問題であることがわかる。卒業式参加者の命よりも「日の丸・君が代」を優先するのも、この国が戦前から地続きの、天皇制国家であるからだ。憲法1条が天皇条項であるのは、その証左だ。呼吸器をつけた子どもの命よりも「国歌斉唱」を優先する校長たちは、戦前・戦中の校長が戦火から御真影を護ろうとした姿、それができずに殉職した姿と私には重なる。

 裁判では自身が直接損害を受けたことが審理の対象とされることから、不起立教員個々人の憲法19条「思想及び良心の自由」や20条「信教の自由」が侵害されたと訴える。憲法26条「教育の自由」や教育基本法16条「教育の不当支配」も訴えるが、裁判所はそれについては審理しない。「君が代」不起立処分取消し訴訟で、裁判官は教育の国家支配について審理してほしいと私は強く願う。 私の裁判は終了したが、「君が代」不起立の戒告処分は適法であり、子どもたちが「国旗に正対し国歌を起立し斉唱」させられている限り、闘い続けねばと思う。闘いを通して、『日の丸・君が代』・天皇制を排斥し、この国に民主主義を定着させていきたい。   

 <根津被処分歴>
1990年4月〜2000年3月 八王子市立石川中
@1994年3月(処分発令は4月)
   卒業式の日の朝、校長が職員会議の決定を破り揚げた「日の丸」を、生徒の「降ろして」と叫ぶ声を受けて、また、石川中の民主主義を護るために降ろして減給1月処分。
A1995年3月(11月)
 職員会議の決定を踏みにじって「日の丸」を揚げた校長の行為について記した学級通信が「不適切な内容」だとして訓告。
B1999年3月(8月)
   「自分の頭で考えよう」という趣旨の、3年生最後の授業で使った自作プリントが「不適切な内容」だとして訓告。

2000年4月〜2003年3月 多摩市立多摩中
C2001年2月から2002年にかけて(2002年3月)
「従軍慰安婦」「同性愛」問題を取り上げた家庭科の授業への攻撃に始まり、指導力不足等教員として申請された。指導力不足等教員には認定されなかったが、この期間中に発せられた職務命令に従わなかったとして減給3月処分

2004年4月〜2006年3月 立川市立立川二中
D2005年3月(3月)卒業式の「君が代」不起立で減給6月処分。
E2005年4月(5月)入学式の「君が代」不起立で停職1月処分。
F2005年7月(12月)思想転向を迫る「再発防止研修」(7.21)の際、ゼッケンを着けたことと質問をし続けたことで、減給1月処分。
G2006年3月(3月) 卒業式の「君が代」不起立で停職3月処分。

2006年4月〜2007年3月 町田市立鶴川二中
H2007年3月(3月)卒業式の「君が代」不起立で停職6月処分。
2007年4月〜2008年3月 都立南大沢学園養護学校
I2008年3月(3月)卒業式の「君が代」不起立で停職6月処分。免職を阻止。    2008年4月〜2011年3月 都立あきる野学園
J2009年3月(3月) 卒業式の「君が代」不起立で停職6月処分。

『レイバーネット日本』(2021-04-19)
http://www.labornetjp.org/news/2021/0417nezu


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