2021/9/28
自由民権運動の結晶「五日市憲法を歩く」東京全労協学習交流会の感想 \増田の部屋
◆ 東京全労協学習交流会「五日市憲法を歩く」に参加して

9月4日(土)東京全労協毎年恒例の学習交流会に参加しました。今年はコロナ禍で中止も検討されたらしいですが「でも、やろう!」ということになったそうで、とてもありがたかったです。
というのは、以前から「一度、『1881年作成、基本的人権保障の五日市憲法』の現場に行きたいなぁ」とは思っていたのですが、なにしろ、あきる野市武蔵五日市駅に拙宅から行くには、バスを入れれば4〜5回、乗り換えなければならず、片道3時間くらいはかかるので躊躇し続けて幾星霜(笑)今に至り…
ということで、御案内が来た時には「これは行くしかない!」と…。小雨降る中、午前10時、武蔵五日市駅に集合、参加者は15人くらいかな…先ず、駅から徒歩5分くらいのところにある、五日市憲法草案起草者の千葉卓三郎が教えていた勧能学校跡地に。
現在も小さなお堂があります。ここにある江戸時代の阿弥陀仏座像は端正優美でした。
「五日市町」というところは秋川渓谷のあるところで、燃料が木炭だった時代、木炭・木材・絹織物の生産でたいへん繁栄しており、各地の人との交流も盛んで、渋谷が未だ「村」だった明治時代に既に「町」だったそうです。
そういう場所柄、裕福な豪農地主たち&その後継の若者たちが、明治となり新しい時代・自由民権運動の息吹を胸いっぱい吸って育ち、学習結社「五日市学芸講談会(メンバーは33人…だったと思う)」を作って、外部から講師を招いて憲法案だけでなく、いろいろ討論しながら学習していたようです。
以下は中心人物の一人で若干15歳で村長職に当たる職についていたという大地主の息子・深沢権八が書き残していた、郷土館にあった討論テーマのメモのほんの一部です。
深沢権八の写真を見ると、今なら、ジャニーズ系の美少年として売れっ子になりそうな(笑)感じ。
29歳の若さで亡くなったなんて残念…長生きしていたら、どうなったでしょうか?秩父事件を最後に自由民権運動が圧殺された後、運動にかかわった多くは国家主義者になっていきましたが…。
「五日市憲法草案の碑」は市立中学校の敷地内…道路に面しているところなので自由に見学、可…にありました。
1968年に、歴史家の色川大吉先生が…今月7日に亡くなりました。合掌…深沢家の土蔵で、偶然にこの草稿を発見されなければ、今の世に出ることも無く、朽ちていたかもしれず、本当に「これぞ、奇跡!」とも言える出来事でした。もしかしたら、他にも、天賦人権の憲法案はありながら、人知れず消えていったものもあったかも…
深沢家屋敷跡は、ちょっと遠いので行けませんでしたが、郷土館にあった写真です。土蔵に、この憲法草案や深沢権八が書き記したものをきちんと保管し続けてくださっていた…その数や1万点!…深沢家の人たちに敬意を捧げます。
この五日市憲法草案は、いろいろと研究がされているようですが、女性の姿が見えないのは当時としてはしかたないことでしょうね…ただ、景山(福田)英子等、希少価値的女性が自由民権運動の中に存在していたので、現在の厚木では彼女を招いて女性の結社「愛甲婦女協会」もできていました。
五日市でも末端では少しは女性も参加していたのではないかと思うのですが…でも、名前は記されなかったのでしょう。
以下は郷土館に展示されている五日市憲法草案!レプリカですが、きちんと和紙に書かれています。原本は、あきる野市中央図書館に保管されているとか…A4より一回り大きい和紙に丁寧に書かれています。
全204条…帝国憲法は76条、現日本国憲法は103条…の内、150条が基本的人権について。
「国帝」の権限から始まり、けっこう、この権力は強大で、基本的人権条項と矛盾が見られるようです。ただ、「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス。」という条項もあり「国帝」の権力を抑制することもでき、なによりも「臣民」という規定はなく「国民」である点、この憲法案が採用されていたら確実に日本の歴史もアジアの歴史も、変わっていたでしょうに
…実際には、薩長成り上がり明治政府が自由民権運動(国会期成同盟)の機先を制して1881年10月12日「国会開設の詔」を出し「政府が勝手に憲法を作るぞ〜!」(欽定)と宣言したため、国会期成同盟は混乱し第3回会議は開かれず、この憲法案をはじめ各地の自由民権憲法案は日の目を見なかったのでした…返す返すも残念至極…
下の写真は
こういう憲法が、もし、明治時代にできていたら、あの悲惨な侵略戦争も遂行できなかったはず…歴史のイフは無意味とは言いますけど…
下は、この憲法草案を作成した千葉卓三郎の年譜と写真です。
千葉卓三郎、なかなか渋めハンサムの教養豊かなおじ様ふう…私の好みかな(笑)…。31歳の若さで亡くなったなんて本当に残念ですね。
お昼は「秋川渓谷 瀬音の湯」でランチ。いつもは、ビール等で乾杯して、自己紹介や日ごろの活動などを報告して盛り上がるのですが、緊急事態宣言中ということで、アルコールは無し…やっぱり、なんだか物足りない(笑)…でも、しかたありません。
食事後は各自、温泉入浴…ここは地下1500メートルから掘り出した天然温泉とか。宿泊もできるようです。
私は翌日から「新井祥子元草津町議を支援する会」…町長からの性被害を訴えたためにリコールされ、凄まじいセカンドレイプを受けている女性の支援…の草津町議会請願審議の傍聴に草津温泉に出かける予定のため、入浴はパスして帰宅。
あの侵略戦争の悲惨な結末を受けて、やっと、日本人が手にできた戦争放棄・基本的人権保障の日本国憲法を改悪し、アメリカの戦争の手助け戦争をしようとこのコロナ禍でも敵基地攻撃論を唱える人物が首相の座を狙う今(怒)…こういう時代、先人たちが「基本的人権が保障された民主主義の日本国」を目指して苦闘した地を訪れ、考えることは本当に有意義だと思います。
この状況の中で、学習交流会を開催し、充実した資料をご用意くださった東京全労協の方々に心から感謝!

9月4日(土)東京全労協毎年恒例の学習交流会に参加しました。今年はコロナ禍で中止も検討されたらしいですが「でも、やろう!」ということになったそうで、とてもありがたかったです。
というのは、以前から「一度、『1881年作成、基本的人権保障の五日市憲法』の現場に行きたいなぁ」とは思っていたのですが、なにしろ、あきる野市武蔵五日市駅に拙宅から行くには、バスを入れれば4〜5回、乗り換えなければならず、片道3時間くらいはかかるので躊躇し続けて幾星霜(笑)今に至り…
ということで、御案内が来た時には「これは行くしかない!」と…。小雨降る中、午前10時、武蔵五日市駅に集合、参加者は15人くらいかな…先ず、駅から徒歩5分くらいのところにある、五日市憲法草案起草者の千葉卓三郎が教えていた勧能学校跡地に。
現在も小さなお堂があります。ここにある江戸時代の阿弥陀仏座像は端正優美でした。
「五日市町」というところは秋川渓谷のあるところで、燃料が木炭だった時代、木炭・木材・絹織物の生産でたいへん繁栄しており、各地の人との交流も盛んで、渋谷が未だ「村」だった明治時代に既に「町」だったそうです。
そういう場所柄、裕福な豪農地主たち&その後継の若者たちが、明治となり新しい時代・自由民権運動の息吹を胸いっぱい吸って育ち、学習結社「五日市学芸講談会(メンバーは33人…だったと思う)」を作って、外部から講師を招いて憲法案だけでなく、いろいろ討論しながら学習していたようです。
以下は中心人物の一人で若干15歳で村長職に当たる職についていたという大地主の息子・深沢権八が書き残していた、郷土館にあった討論テーマのメモのほんの一部です。
○中学校教課書に政治書を加ふるの可否どれも、おもしろい論議がなされたでしょうね。「西郷隆盛と大久保利通と優劣如何」なんて、どんな論議だったか聞いてみたい…私は、どちらも嫌い(笑)ですけど…。
○財産を以って兵役を免れしむるの利害
○駅逓局は人民の私書を開封する権ありや否
○西郷隆盛と大久保利通と優劣如何
○増租の利害
深沢権八の写真を見ると、今なら、ジャニーズ系の美少年として売れっ子になりそうな(笑)感じ。
29歳の若さで亡くなったなんて残念…長生きしていたら、どうなったでしょうか?秩父事件を最後に自由民権運動が圧殺された後、運動にかかわった多くは国家主義者になっていきましたが…。
「五日市憲法草案の碑」は市立中学校の敷地内…道路に面しているところなので自由に見学、可…にありました。
1968年に、歴史家の色川大吉先生が…今月7日に亡くなりました。合掌…深沢家の土蔵で、偶然にこの草稿を発見されなければ、今の世に出ることも無く、朽ちていたかもしれず、本当に「これぞ、奇跡!」とも言える出来事でした。もしかしたら、他にも、天賦人権の憲法案はありながら、人知れず消えていったものもあったかも…
深沢家屋敷跡は、ちょっと遠いので行けませんでしたが、郷土館にあった写真です。土蔵に、この憲法草案や深沢権八が書き記したものをきちんと保管し続けてくださっていた…その数や1万点!…深沢家の人たちに敬意を捧げます。
この五日市憲法草案は、いろいろと研究がされているようですが、女性の姿が見えないのは当時としてはしかたないことでしょうね…ただ、景山(福田)英子等、希少価値的女性が自由民権運動の中に存在していたので、現在の厚木では彼女を招いて女性の結社「愛甲婦女協会」もできていました。
五日市でも末端では少しは女性も参加していたのではないかと思うのですが…でも、名前は記されなかったのでしょう。
以下は郷土館に展示されている五日市憲法草案!レプリカですが、きちんと和紙に書かれています。原本は、あきる野市中央図書館に保管されているとか…A4より一回り大きい和紙に丁寧に書かれています。
全204条…帝国憲法は76条、現日本国憲法は103条…の内、150条が基本的人権について。
「国帝」の権限から始まり、けっこう、この権力は強大で、基本的人権条項と矛盾が見られるようです。ただ、「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス。」という条項もあり「国帝」の権力を抑制することもでき、なによりも「臣民」という規定はなく「国民」である点、この憲法案が採用されていたら確実に日本の歴史もアジアの歴史も、変わっていたでしょうに
…実際には、薩長成り上がり明治政府が自由民権運動(国会期成同盟)の機先を制して1881年10月12日「国会開設の詔」を出し「政府が勝手に憲法を作るぞ〜!」(欽定)と宣言したため、国会期成同盟は混乱し第3回会議は開かれず、この憲法案をはじめ各地の自由民権憲法案は日の目を見なかったのでした…返す返すも残念至極…
下の写真は
「凡ソ日本国民ハ法律ヲ遵守スルニ於テハ万事ニ就キ予メ検閲ヲ受クルコトナク自由ニ其思想意見論説図絵ヲ著述シ之ヲ出版頒行シ或ハ公衆ニ対シ講談討論演説シ以テ之ヲ公ニスルコトヲ得ヘシ」(「言論・思想・表現の自由」)や現日本国憲法の先取りともいうべき規定のある部分です。
「凡ソ日本国民ハ集会ノ性質或数人連署或ハ一個人ノ資格ヲ以テスルモ法律ニ定メタル程式ニ循拠シ皇帝国会及何レノ衙門ニ向テモ直接ニ奏呈請願又上書建白スルヲ得ルノ権ヲ有ス
但シ該件ニ因テ牢獄ニ囚附セラレ或ハ刑罰ニ処セラルヽコトアル可ラス若シ政府ノ処置ニ関シ又国民相互ノ事ニ関シ其他何ニテモ自己ノ意ニ無理ト思考スルコトアレハ皇帝国会何レノ衙門ニ向テモ上書建白請願スルコトヲ得可シ」(請願権)という、
こういう憲法が、もし、明治時代にできていたら、あの悲惨な侵略戦争も遂行できなかったはず…歴史のイフは無意味とは言いますけど…
下は、この憲法草案を作成した千葉卓三郎の年譜と写真です。
千葉卓三郎、なかなか渋めハンサムの教養豊かなおじ様ふう…私の好みかな(笑)…。31歳の若さで亡くなったなんて本当に残念ですね。
お昼は「秋川渓谷 瀬音の湯」でランチ。いつもは、ビール等で乾杯して、自己紹介や日ごろの活動などを報告して盛り上がるのですが、緊急事態宣言中ということで、アルコールは無し…やっぱり、なんだか物足りない(笑)…でも、しかたありません。
食事後は各自、温泉入浴…ここは地下1500メートルから掘り出した天然温泉とか。宿泊もできるようです。
私は翌日から「新井祥子元草津町議を支援する会」…町長からの性被害を訴えたためにリコールされ、凄まじいセカンドレイプを受けている女性の支援…の草津町議会請願審議の傍聴に草津温泉に出かける予定のため、入浴はパスして帰宅。
あの侵略戦争の悲惨な結末を受けて、やっと、日本人が手にできた戦争放棄・基本的人権保障の日本国憲法を改悪し、アメリカの戦争の手助け戦争をしようとこのコロナ禍でも敵基地攻撃論を唱える人物が首相の座を狙う今(怒)…こういう時代、先人たちが「基本的人権が保障された民主主義の日本国」を目指して苦闘した地を訪れ、考えることは本当に有意義だと思います。
この状況の中で、学習交流会を開催し、充実した資料をご用意くださった東京全労協の方々に心から感謝!
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