2021/10/18

六人の任命を求め続けていくことは、社会のための闘い  ]平和
  =時代を読む(東京新聞)=
 ◆ 6人の任命を求め続ける
法政大学名誉教授・前総長田中優子(たなかゆうこ)

 岸田内閣が発足した。しかし公文書改ざん、桜を見る会、日本学術会議会員の任命拒否問題など、説明がなされていない問題については、やはり何も説明しないようだ。
 つまり「自民党」という存在の顔の部分だけ仮面をつけかえ続けているだけで、中身は何も変わっていないし、変えるつもりもないと見える。
 その価値観は、菅前首相の五輪の際の発言のように、一九六四年からほとんど変わっていないのではないだろうか。

 今や自民党は懐古党ともいうべきもので、安倍政権の時には、その懐古ぶりが戦前にまで及んだ。自民党の、天皇を元首とし家族を国家の単位とする憲法改正草案から見える社会は、戦前の日本社会である。
 戦前と言えば、ごく普通の年表を眺めていても、一九三〇年代の動きはすさまじい。


 文部省が学生思想問題調査委員会を発足させ、小林多喜二が検挙・虐殺された。
 滝川事件において政府は、国家に批判的な態度をとる学者たちへのあからさまな発禁処分や大学への罷免要求をおこなった。
 そして美濃部達吉の天皇機関説を不敬罪で告発し、矢内原忠雄は東大を追われた。
 学問の世界だけではなく映画法という法律が公布され、脚本が事前に検閲されるようになった。
 これらはすべて一九三〇年代に起こっている。
 満州事変、盧溝橋事件、国家総動員法も一九三〇年代の出来事である。

 日本学術会議会員の任命拒否問題は、このような戦前の動きを想起させた。なぜなら、戦後憲法の精神に反するからだ。
 憲法では第一九条の思想及び良心の自由、第二〇条の信教の自由とは別に、二一条に「集会・結社・表現の自由」を、二三条に「学問の自由」を、「これを保障する」という文言で定めている。
 個人が自由に研究すればよい、と言った意味での自由ではなく、「表現」と「学問」は、どちらも時の政権から根本的に自由でなくては、社会がそこなわれるからである。

 とりわけ学問は長い時間をかけ、世界中の多様な観点からの相互批判によって発展してきた。
 批判によって分野も変化しデータの新発見もあり不正や虚偽も発覚し、基盤研究も応用研究も社会の一翼を担ってきた。その積み重ねが一国の一時期の政権によってそこなわれるなら、それ自体が社会や国民にとって大きな損失なのである。
 それが自明であるから、学問の自由は憲法によって保障されている。

 任命拒否問題は、政治家が憲法の意味するところを理解していないのではないか、という深刻な疑念を抱かせたのである。
 任命拒否の後、千を超える学会その他が抗議声明を出した。前代未聞のことだ。さらに表現者たちの抗議にも広がった。

 ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎(まなぺしゅくろう)さんは、強い好奇心によって研究を続けてきた。その真鍋さんが日本に帰らない理由として「私は調和の中で暮らすことはできないものですから」と語ったという。
 研究は権力や世論を忖度(そんたく)できない、ということだ。

 十月二日に開催した「学問と表現の自由を守る会」主催のシンポジウムにお
いて、広渡清吾学術会議元会長は、忖度はドイツ語で「先取り的服従」というのだと教えでくださった。
 服従ばかりしていたら好奇心は発揮できない。まともな研究も表現も人間性も育たない。
 六人の任命を求め続けていくことは、社会のための闘いなのである。

『東京新聞』(2021年10月10日)


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