2022/1/16

出版人としてのモラルが感じ取れない『日本のいちばん長い日』の著者偽装  ]平和
  <半藤氏賛美に異議あり(その2)>
 ◆ 最初の作品『日本のいちばん長い日』で読者を再々欺いていた!

   皆さま     高嶋伸欣です


 *またの長文と重複 ご容赦下さい
 <半藤氏賛美に異議あり(その2)>をお届けいたします。

 私が、半藤氏はその書くもの言うことについて”眉に唾を付けて視聞きするべき人”だ、と認識したのは1995年です。
 発端は、同年に発行された半藤氏の最初の著書(作品)の『日本のいちばん長い日』において、同氏は読者を欺く偽装行為を繰り返し行い、そうした行為が不公正であると意識していないと気づいたことでした。

 以後、同氏の言動には一応の関心を払ってきました。その結果、先のメールで明らかにしたような歴史歪曲の事例に遭遇し、上記の認識に自信を得ました。
 また、半藤氏自身が上記の偽装行為の手の内を、何ら反省や謝罪の意も示さず、次々平然と明らかにしていることも知りました。
 最後まで不公正な行為をしているという認識を、同氏は欠いていたことになります。


 こうしたことが分かっても、それらは私にとって異次元の感覚であり、理解不能でした。そこで、この件をこれまではあまり外向けには問題提起をしていませんでした
 けれどもこの1年間、半藤氏没後の同氏賛美の風潮に直面し、考えを替えました。この件を衝くことにしたのです。
  *以下、その問題提起です。添付資料を含め長文です。時間のある時にご覧ください。


 ―半藤一利氏の初作『日本のいちばん長い日』は偽装で彩られていたー

 『日本のいちばん長い日』は半藤氏の代表作の一つとして広く知られ、出世作としての高い評価も定着している観があります。添付資料3・Aの歴史学者加藤陽子氏による評価もその1例です。

 <偽装1>「大宅壮一編」は”大うそ”

 ただし加藤陽子氏のいう同書の1965年初版は「大宅壮一編」と銘打たれていました。表紙や奥付け等に半藤氏の名は著者・編者などとしての表示なく、本冊中にも全く登場していません。

 実質的に同書を執筆した半藤氏たち文藝春秋社の社員の著書としたのでは「売れない」との同社上層部の判断(業務命令)で、大宅氏の名前を借りることにしたのだ、と半藤氏が資料4のA・Bで明らかにしています。

 それら資料によれば、大宅氏は「この本の取材、執筆には一切関わっていません。一行も。ゲラも見ていませんよ」と言い切る程に無関係だったのです。
 一方で、「名前を借りにいって五万円払った」のだそうです(1968年修士卒の私の高校教員初人給は1.8万円でした)。
 商品として販売される書籍の場合、著者・編著者名等は消費者に向けた訴求効果を左右する重要なセールスポイントです。ことさらにそれを重視したからこそ文藝春秋社は、「大宅壮一編」という偽りの看板を意図的に掲げたわけです。

 『日本のいちばん長い日』は、”看板に偽りあり”です。
 商品については、「事実に相違して」「一般消費者による自主的かつ合理的な選択を阻害するおそれがある」表示を「不当景品類及び不当表示防止法(不当景表法、1962年)」第5条が禁じています。
 従って、半藤氏の言う通りであれば、同書は法律違反の商品ということになります。

 半藤一利氏と文藝春秋社幹部は、同書販売のための高額を投じて法律違反の偽装をやってのけたわけです(当時の出版界で多用された手法でもあるようです)。私はこれを<偽装1>としています。

 <偽装2>角川文庫版の再出版でも<偽装1>を継続

 ともあれ、それだけの名義借用料を支払った効果もあってか、同書はベストセラーとして版(増刷)を重ねます。映画化が実現し、英独仏では翻訳本が出版されます。
 内容の評価と共に、半藤氏たちを含む文藝春秋社(1966年3月までは「同新社」)の同書販売戦略が成功したことになります。。
 そのためか、資料4のBにあるように、1973年には角川文庫として出版され増刷を繰り返します。
 その角川文庫版でも「大宅壮一編」の偽装はそのままでした。

 ただし、この角川文庫版では「文藝春秋戦史研究会 半藤一利」として「あとがき」を掲載し、「プロローグは安藤満、本文は半藤一利が書いたことを明確にしておきたい」と明示しています。
 その一方で、「大宅壮一編」としたのは偽装であることに全く触れず、同文庫版も「大宅壮一編」として出版することで増刷を続けたことが、資料4・Bの奥付から読み取れます。
 これを、私は<偽装2>としています。

 <偽装3>「半藤一利著」本出版の際の<偽装1・2>隠し

 やがて、半藤氏は同社の専務取締役まで登りつめて退社します。その際、上記の”偽装本”は「自分が著者だ」として「大宅壮一編」の表示を「半藤一利著」に改変して、文藝春秋社から出版します。

 それが『日本のいちばん長い日(決定版)』(1995年6月発行)です。同書の<(決定版)>表記は書名表記に比して小さく、外見上は新たな書下ろし本の体裁でした。

 こうして、1965年の文藝春秋社版及び1973年角川文庫版の「大宅壮一編」本(以下「大宅本」)と1995年の「半藤一利著」本(以下「半藤本」)とが、ほぼ同一の内容のまま世に登場しました。
  *「半藤本」は「(決定版)」と銘打っていますが、「大宅本」出版以後の新資料等による微修正にすぎないとみなされています。資料3・Aで加藤陽子氏が同書の出版年を1965年としたのもそうした判断を示しています。

 このような場合、後発の1995年版では、「本書は『大宅壮一編』を『半藤一利著』に改めたものです」等の注記を表紙(カバーを含め)等、目立つ場所に明示するのが出版人としてのモラルのはずです。

 ただし、恥ずべきことですが、当時はそうしたモラルが半藤氏の周辺だけでなく出版界全体で、まだ定着していなかった可能性はあります。
 けれども、資料4・Bの原本が出版されたのは2010年です。その時点にあっても、半藤氏は「大宅壮一編」と偽装し続けたことについてモラル上の痛痒を何ら感じていない様子が、同資料上の言説から読み取れます。

 「ずーっと大宅さんの本だと思われていましたね。今でも思っている人がたくさんいるんじゃないですか」との発言からは、<偽装1・2>の反モラル行為に加担したことを恥じている様子が読み取れません。

 その一方で、自分の名を世に出す機会が遅れたことを悔しく思い続けているかのようです。
 その分、欺かれた読者を嘲笑っているように、私には読めます。ちなみに、そうした欺きに気づくのが遅れ、買う必要がなかった「半藤本」を購入してしまった読者の一人が私です。

 私は「半藤本」が出版された当時、昭和天皇が「遅すぎた聖断」をどのように弁明してきたかについて関心を持っていました。そこで、「聖断」前後の状況について新たな情報や分析等が盛り込まれた書籍と思い込み、即座に同書を購入しました。

 そして急いで読む内に「前に読んだ本と同じことばかりでは?」との疑問が湧きました。よく見ると大宅氏の「序(文)」がそのまま、目次の章立てもそのままでした。その他いろいろページをめくっても「大宅本」を「半藤一利著」に替えたに過ぎないことを読者に明示した表記は見つかりませんでした。

 ようやくみつけたのが、資料4・Aの「あとがき」の傍線部分です。そこを丹念に読み進むことで、「半藤一利著」に変更したに過ぎないことがなんとか判読できたのです。

 半藤氏には、読者あっての著作業という認識よりも、自分こそこの本の著者だ、と誇示できたことの満足感の表明が優先されて当然という意識のようです。

 さらに同氏は、「長いこと別れていた子供に『俺が親父なんだ』と名乗ったような気分を味わっている」としています。「あとがき」のこの部分は、いよいよ半藤氏の自己中心的な感慨を語ることが主眼であったと読めます。
 読者の困惑を解くという意識が、半藤氏にはなかったことになります。

 そして今も「(大宅さんの本だと)思っている人がたくさんいるんじゃないですか」とも言っているのです。
 この言葉は、「半藤本」が「大宅本」とは著者名を入れ替えたにすぎないことを明示しなかった結果、「大宅本」の<偽装1・2>の隠蔽の継続を見事にやってのけた”成功”体験として認識していることの現れと読めます。

 言い直せば、「半藤本」が「本書は『大宅壮一編』とした原本を『半藤一利著』と改めたものです」等のアナウンスを明示しなかったことで、<偽装1・2>は再構築されその”効果”が持続されたというわけです。
 その状況の存在を把握していることを、半藤氏はこの言葉で示したことになります。
 私はこの事態を<偽装3>と位置付けています。

 <偽装4>「半藤一利著」も”大うそ!”

 「半藤本」の偽装はこれだけではありません。

 『日本のいちばん長い日』は前出のように「プロローグは安藤満、本文を半藤一利が書いた」とされています。「序」と「目次」を除いた「プロローグからエピローグ」までは、「半藤本」で(10〜318pの)総計309pです。その内の「プロローグ」は(10〜46pの)37p分です。

 さらに、資料4・Bの傍線部分では原稿執筆が締め切りに間に合わず「『いちばん長い日』の最後の」「二時間分(8月15日午前9時〜10時、10時〜11時のこと)を竹内修二君に書いてもらって、最後の一時間はわたしが書きました」とあります。
 この二時間分が「半藤本」では10p分になります。

 「プロローグ」分37pと「二時間」分10pの合計は47pです。309pの内の47pを半藤氏以外が執筆しています

 「プロローグ」の37p分と比較して、24時間を1時間毎に区切った各章でこれ以上のページ数を費やしているところはありません。それに、「プロローグ」は、本編全体の展開の注目点などを絞り込むための事前状況を的確に集約して示す、重い役割を果たしている部分です。
 その部分を執筆した安藤満氏の業績が「半藤一利 著」では評価されず、読者には示されていないことになります。

 また、資料3・Bにあるように半藤氏自身が「私たちがこの本で特に注意したことの一つは」と、「私たち」との表現を用いています。そう表現するのが事実に即していたからでしょう。

 このような場合、「半藤一利 編著」とするか他の執筆者名を列記するのが「うそいけない」と強調する人の矜持ではないでしょうか。

 なお、1995年「半藤本」では「あとがき」の文末で、資料3・Bや4・Bにある安藤氏や竹内氏が資料収集などで支えてくれたことを明らかにして、謝意を示してはいます。けれども両氏が執筆者の一員である事実は明らかにしていません。

 専務取締役で退職し、「もの書きとして一本立ち」する半藤氏が後輩たちの遠慮や忖度を見透かして、初作品を単著とする業績独り占めの見栄を張ったかのようです。
 今様に言えパワハラさながらです。

 ともあれ、こうしたことから、私は「半藤本」にも<偽装4>の”大うそ”があるとしています。


 (その2)のまとめ

 以上のような問題提起については、「歴史探偵」が歴史学などのアカデミズムの世界ではなく、フィクションを大前提とする作家の言動の場なのであるから論理性や真実性を二の次にするのは当たり前、とされるかもしれません。
 そうであるならばここまでの指摘は、空回りと言われそうです。

 それにしても、そうした作品観をもってしても、資料3と4を精査するだけでも摘出される下記のような齟齬もお構いなしとされるのでしょうか。

 @ 文藝春秋社内の略称「戦史研究会」が、資料3・Bでは「太平洋戦争を研究する会」。資料4・Bでは「太平洋戦争を勉強する会」とされている。

 A 資料3・Bでは『日本のいちばん長い日』を「まとめたのは1965年の春のことであった」とあるが、資料4・Aでは「1965年の夏に書きあげた」とある。

 著者として真剣、誠実に校正をしていれば是正されたはずの齟齬や偽装を放置したまま「警世の語り部」などの評価を謳歌するかの如くして半藤氏が没してからの1年間。同氏賛美の風潮にほとんど変化がない今の日本社会は、今後も「戦争だけは絶対に始めてはいけない」との言葉を不可侵の垂訓、金科玉条として語り継いでいくのでしょうか。

 上記の<偽装1〜3>に私が気付いた「半藤本」の出版年は1995年。
 折しも藤岡信勝氏が「自由主義史観」を掲げて新たな歴史歪曲運動の扇動者として脚光を浴び始めた時期です。当時、私は藤岡氏批判に取り組んでいました。

 その藤岡氏については、事実歪曲だけでなく他者からの信書を無断で公表して誹謗中傷するなど倫理・法規無視の常習者であることを明らかにしています。
 一方の半藤氏も似たり寄ったりではないかというのが、<偽装1〜4>に気づいた時点以来、こんにちまで強化されることはことはあっても揺らぐことのない私の認識です。

  以上 高嶋の私見です 長文をお付き合い下さりありがとうございます  

  賛否等の感想・意見を示して頂ければ幸いです    転送・拡散は自由です


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ