2009/1/7

国家忠誠宣誓義務とteacher  V応援する会の運動
 ◎ 世取山先生、「国家忠誠宣誓義務」は「教育内容」に含まれるのか教えて下さい。
KH(都立高教員)

 ヒューマンライツのフィクサーを自認する世取山洋介新潟大学准教授の講演を、2回に渡って聞いて大変啓発されるところが多かった。特に次の傑作なたとえ話には触発された。
 「郵便配達夫は、官報の記載内容に反対しているからといって配信を拒否できないのに、なぜ教師は命令されたメッセージを伝達しなくて良いか」
 これは行政側が多用する足許を掬うロジックと同じだ。teacherがpostmanと同じなら、国家意思を子どもに伝えるのがteacherの職務で、個人的拒否は認められなくなる。でも、どこか変だ。

 まず、「郵便配達夫」と「教員」は同じではない。違うのは「職務」の性格だ。
 郵便配達夫の職務は、配達という「外形」で、「内容」を問われることはない。仮に、郵便物が脅迫状であろうと爆発物であろうと、配達すること(外形)が仕事で、内容(中味)について責任は問われない。配達をしなかった(外形)時だけ職務違反を問われる。
 教員は、教えるという行為(外形)以上に、何を教えるか(中味)が職務の中心をなす。まさか、脅迫や嘘を教えることが職務として許されるわけがない。教えないこと(配達しないこと)も職務に含まれることがある。教員が「職務違反」に問われるとしたら、「外形」よりその「内容」である。国の示す教育内容が無謬という前提に立たない限り、教員に「外形」だけで「職務違反」を科すことはできない。


 次に、「官報」と「教育」とは同じではない。違うのは「内容」の性格である。
 「官報」は結論で、「真か偽か」の尺度だけで済む。「教育」は「真偽」だけでは済まない。教育には「1+1=2」的な「事実的知識」も含まれるが、必ず善悪の「価値判断」も含む。アウシュビッツやヒロシマがあったかなかったか(事実)だけではなく、やっていいことだったのか(善悪)を考えるのが教育である。核エネルギーの作り方(事実)と軍事利用等の使い方(善悪)とは別問題である。地動説(事実)を唱えた*ガリレイへの有罪を350年後に逆転無罪にせざるを得なかった反省(善悪)に、教会(国家)の独断的教育権が誤りであることの分かり易い原点があるのではないか。国家権力が教育内容に介入することが間違いであることは歴史的に明らかだろう。

 教員は、「官報」の「配達夫」ではない。
 翻って、伝えるべき「正しい教育内容」とは何か。それは誰が決めるのか。国家が決めるものもあってもいいのか。
 例えば「国家忠誠宣誓儀式」の義務づけは自明の国際的常識で、拒否できるとしたら「市民的自由」か「職務上の自由」のどちらかを問う前に、そもそもそのような「義務」は存在するのだろうか。
 憲法修正第1条に「個人の権利」を謳うアメリカでは、バーネット判決・ティンカー判決・ラッソー判決など「市民権」(教育権まで踏み込んではいないそうだが)が優先している。

 『日本国憲法』の三大義務は、言うまでもなく「教育・勤労・納税」である。99条に「公務員の憲法尊重擁護義務」とあるのは、国民が国家権力に枠をはめるという近代立憲主義の精神を示すものである。憲法の定めによるなら、教員が忠誠を示すのは『憲法』に対してであって『国家』に対してではない。少なくとも、国民への「国家忠誠宣誓義務」を『憲法』から導き出すことは出来ない。
 ところが、「国家忠誠宣誓義務」が、国から教員へ、教員から子どもへ、teacherをpostmanにして大手を振ってまかり通り始めている。

 『藤田先生を応援する会 通信』30号(2008/10/9)から

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