2009/4/20

高麗博物館講座『在日の今を語る』報告  \増田の部屋
 ◆ 高麗博物館講座『在日の今を語る』報告

皆様
 こんにちは。犯罪都教委&3悪都議と断固、闘う増田です! これはBCCでお送りしています。重複・長文ご容赦を。

 昨日(09年4月18日)は高麗博物館連続講座2009「在日の今を語る」第1回、梁 澄子(ヤン・チンジャ)さん「私をつき動かすもの」に参加しました。
 ゆとりを持って行き、展示でも見てから講師のお話を聞こうなどと思いながら、やっぱり新大久保の博物館に着いたのは定刻10分前の17:20。狭い会場は、もう、席にそんなにゆとりはありません。定刻には博物館会員の方を中心にぎっしりとなりました。60名ぐらいの参加者でしょうか。最初に名誉館長であり、「日韓100年市民ネットワーク」の共同代表である宋富子(ソン・プジャ)さんからご挨拶がありました。この講座は、もう4年目に入るそうです。
 講師の梁 澄子さんは「人生を50年生きて」と語られましたから、50歳でいらっしゃるかな? 小学校から高校まで朝鮮学校に通い、明治大学文学部を卒業、朝鮮語教師、通訳・翻訳業をしながら、在日の「慰安婦」被害者・宋神道さんの支援に関わり、現在、ソウルの「戦争と女性の人権博物館(WHR)日本建設委員会」代表として、たいへん多方面にご活躍中です。


 お話は、@両親が渡日された経緯、A民族学校を出られた半生のこと、B宋神道さんの支援の映画『オレの心は負けていない』のことなど、の3点が中心でした。

@ 両親のこと
 両親は二人とも済州島の出身。実は最愛のお父さんは昨年、突然、亡くなられたということで、なかなか心の整理をつけることができないということで、お父さんのことを話される時は、しばしば言葉が詰まりました。ひじょうに明るく明晰で笑いを誘うユーモアある語り口の中で、お父さんのことを語られる時の涙を抑えられない彼女に、お父さんへの深い愛情を感じました。
 「『孝行をしたい時には親は無し』ということをつくづく感じています。義理の父は肺癌ということで7時間かけて話を聞き、もう映像に残せているのに、一番話を聞きたかった父・・・人の面倒ばかり見て、自分は面倒を見させてくれなかった人です。だから、渡日の細かい経緯は良く分かっていません。
 分かっているのは少しですが・・・父は16歳(満年齢なら14・5歳)、母は4歳(同2・3歳)で日本に来ました。祖父母の代で食い詰めたようです。でも、祖父母は兄を残し、姉や母だけ、つまり、女の子だけを連れてきているのです。先祖の墓を長男に守らせる、ということでしょう。
 私は民族学校で植民地時代のとても感動的で泣ける映画をたくさん見て(そういう映画が多い)、父にも勧めましたが、父は絶対に見に行きませんでした。ある日、ポツンと言いました。『男の子たちばかりが村に残される。夜になると一斉に泣き出す。自分も悲しくなるので、布団をかぶって泣いた。そんな映画を見たら思い出して悲しくなるから、絶対に見ない』と。
 父は祖父母を追って、釜山から大阪に就航していた「君が代丸」で大阪に来て、それから北海道に渡り、パチンコと喫茶店でかなり成功したんですが、兄が小学校に上がったとき、店をたたんで東京に出ました。現在の西東京朝鮮初中級学校で、当時小1から、中3まで、我が家の5人の子どもが在学したので、朝鮮新報社(総連)のの記事になり、インタビューでは『兄を近所の小学校に一ヶ月通わせ、これは駄目だ、と思い、民族教育を受けさせるために上京。』と書かれていました。私は、自分の家はとても貧乏だと思っていましたが、記事には『学校のためにたくさんのカンパ』とありました。
 でもある日、アボジは『北海道だって民族学校はあるよ。寒いんだよね、ここは。』と言いました。だから東京に・・・が本音だったかも(笑)。でも、北海道の民族学校は札幌にしかなく、そうすると寄宿舎に入らなければならないので、子煩悩の父はそれはイヤだったのではないでしょうか」
 印象に残ったのは朝鮮民主主義共和国に対するお父さんの率直な言葉です。「左翼のほうが、生き方が立派だと思ってついていき尽くしたが、クニは、こんなことになっちゃったか」という思いで晩年はいらっしゃったそうです。それでお母さんは社会主義の平等に憧れがあり、二人の喧嘩の種だったそうです。
 でも、03年のイラク戦争の時のエピソードには笑ってしまいました。お父さんが「キム・ジョンイルは、ひどい奴だよ」と言ってお母さんと喧嘩になっていたのに、4時からのテレビ『遠山の金さん』に、お母さんが「お父さん、あなたの好きなブッシュがはじまるよ」と仲直り・・・??? そのオチは「正義の名の下に皆殺しだよ」!?(笑)
 「そんな父は故郷の済州島に帰りたがっていましたが、ついに帰れませんでした。機会はあったんです。でも、土壇場で『おなかを壊したから行けなくなった』なんて・・・この時のこと思うと胸が詰まります・・・本当は『恥ずかしくていけないよ』・・・というのです。父は自分の人生に忸怩たる思いがあったのでしょう。15・6歳まで育ち、思い出のある生まれ故郷に、ついに帰れなかったのです」

A 民族学校について
 「結婚して二人の子どもができ、朝鮮学校か日本の学校か悩みました。朝鮮学校に満足はしていません。今は、思想教育はやってませんが、私が入った時は、朝から晩まで、という状況で、それに儒教教育が加わります。だから、工場で働く時は平等でも、家に帰ると女だけが働く・・・という状況。
 私は民族学校で育ったことを後悔していません、良かったと思っていますが、いい意味でも悪い意味でも家族的なんです。校長はお父さん、先生はお兄さんやお姉さん、みんな仲良し家族ということで、男の子の役割、女の子の役割り、ということが自然に刷り込まれる。」
 このお話で一番印象に残ったのは「民族教育は、本来、やらなくてすめばそれでいいが、今の日本では必要。日本の学校は日本民族教育だから。日本の学校は日本人の子どもが来ることだけを前提としています。ブラジル人などの在日外国人には『日本語を教えてあげる』という姿勢。一人一人の子どもの文化的背景や歴史をみんなで考えていこうという姿勢がありません。」という言葉です。
 また、『アイデンティティー=自分の名前だ』という考察は、とても新鮮な気がしました。「民族」「国」以前に、「世界にただ一人の人間であること!」ということでしょうか?
 「私が最終的に民族学校に行って良かったと思うのは、『私はヤン・チンジャです』と自信を持って言えることで、朝鮮人であることに何のコンプレックスも持たずに育ちました。ある時、(朝鮮籍ではじめて弁護士になった)キム・キョンドク弁護士から『民族学校で育った人は在日朝鮮人のエリート』と言われ驚きました。日本社会のエリートとは無縁なのに・・・でも、キム・キョンドク弁護士は言うのです『あなたたちは(日本の学校で差別を受けて)心の葛藤を経験しないですんだのだから』・・・確かに私は朝鮮人であることで怯んだことはありません。
 だから、日本人であることが当たり前、朝鮮人であることが当たり前、というミゾに生きる9割の在日の心が見えなくなるかもしれません。それで、私は子どもを中学校まで民族学校に通わせました。日本の学校で育った在日のお母さんは子どもを日本の学校に入れた時に子どもの悩みが理解できるでしょうが、私はそういう悩みを経験していないので自信がありませんから。
 しかし、いずれにしろ、私は日本語がマザータングです。夢も日本語で見るし・・・私の祖国は南北の横に分断され、日本では朝鮮語と日本語にたてに二つに分断され、私のアイデンティティーは4つに分断されています。これを一つの人格に統一したいのです。
 済州島出身の海女の方たちで、戦争で帰れなくなって房総半島に定住した人たちがいるので、ルーツの聞き取りを5年間やりました。この間に結婚し、子どもが生まれました。 しかし、5年間のルーツ探しは解決になりませんでした。子どもを持って過去よりも未来を考えるようになり、『自分の名前』がどれほど大事か、と思うようになりました。日本が何なのか? 民族が何なのか? そこに、アイデンティティーはありません。
 私の夫は宣(ソン)ですが、友達や子どもを持つお母さんに『宣(ソン)さん、宣(せん)さん』とか呼ばれると、とっても違和感があります。名前を間違われると、とってもイヤです。
 親戚の中に、日本に帰化したおば夫婦がいます。私を『澄子(すみこ)さん』と呼ぶのです。私は『チンジャと呼んで』というのですが、『はいはい、すみこさん』(笑)・・・彼らは朝鮮的なものを拒否しているのです。結婚式に招待したら『朝鮮人の結婚式はイヤだな。キムチはくさいし』なんて言うのですが、新郎新婦そっちのけで参会者が楽しむ朝鮮式!? 披露宴の写真を見ると、おば夫婦が真ん中で一番、楽しんでいました(笑)。」

B 宋神道さんの支援のこと
 「自分の名前にアイデンティティーを求めて落ち着いたころ、『慰安婦』問題に出会いました。新婚時代に住んだアパートはみんな新婚さんばかりの6軒で子どもは全部で10人、みんな仲が良くて、共同生活のようでした。しかし、そこで、普通の日本人の善良な主婦のお母さんたちから、『どうして日本名にしないの?』などと聞かれるのです。つくづくと『日本の学校ではきちんと歴史教育をしていない、在日朝鮮人の歴史を教えていない、何とかしなくちゃ』と思っていたとき、『慰安婦』問題に出会ったんです。これは在日朝鮮人の問題と根っこが同じ、この問題を通して日本人に正しい歴史認識を持ってほしい、と思いました。
 まだ、90年のことで被害者の名乗り出はなかった時代だったので『真相究明しよう!』ということを中心にして『世論化しよう! それができたら解散しよう』と『従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク』をつくりました。しかし、91年8月にキム・ハクスンさんの名乗り出によって一気に世論化し、91年11月に宋神道さんの情報が入りました。
宋神道さんの支援に関わる中で「この問題を通して、正しい歴史認識を広げよう」とか「人権問題であり、在日の問題がすべて入っている」とかと考えたのは不遜だったのではないかと考えるようになりました。
 宋神道さんに初めて会った時『お前、朝鮮人か? オレは朝鮮人は嫌いだ』と言われました。そこで三日三晩、話を聞きました。彼女は人間不信の塊になっていたんです。在日朝鮮人社会も宋さんを無視してきたことへの恨み。私には『日本人を信用するな』と言いながら、日本人には『日本人はすばらしい』と言っていたり、支援の在日の人に『オレの金を盗んだだろ』と言ったり・・・。でも、最後に『オメー、何言っても怒らないんだな』と言われました。
 元『慰安婦』の人たちは普通には有り得ない凄惨な体験をしての傷の深さがあるのです。でも、そこから来る洞察力の鋭さ。表現力の豊かさ・・・この出会いは偶然であって偶然ではないことを思います。必然だった、と分かります。
 『判決が出たら終わりにしたい』と思っていたのに、宋神道さんの『オレの心は負けていない』という言葉を聞き『謝罪・補償』は得られなかったのですが、いかに、宋さんが変わってきたことか・・・宋神道さん語録・・・『裁判かけて、体験を話してから、ちっとは安心した』『オレも少しは人間らしくなったよ』・・・5年間で私たちも宋さんもゆとりが出たのです。映画は宋さんが変わりながら回りも変えていく映像が映し出されています。ぜひ、現在でも上映しているところがありますので見てください。」
 韓国では、名乗り出た被害者は238人、現在、生存者は93人だそうです。韓国で『戦争と女性の人権博物館』建設の中心になっているユン・ミヒャさん、ユン・ジョンオクさんは、被害者のカン・ドッキョンさんの苦しみぬいた凄絶な闘病と死に『ハルモニの遺志は継ぐから、楽になってください』と誓われたそうです。半世紀も沈黙を余儀なくされ、しかし、勇気を持って名乗り出、受け入れてくれる人たちがいて、被害を回復していき、「過去は恥ずかしくない」と自分たちの人生を誇らしく思えるようになり、「同じ被害を二度と出さないように」と未来の平和のための活動家となっていらっしゃる被害者たち。
 その遺志の実現のための博物館は独立公園内に作ろうとしていることで、現在、独立運動顕彰団体の方たちの反対で困難があるようですが、なにより、やっぱりお金がネックとか・・・必要総額3億円のうち、日本では1億円集めようというのが目標ですが、集まっているのは、まだ2千万円・・・んーーー・・・あちこち出費がかさんでいる私メですが、ここまで聞いた以上はカンパしないと・・・

 その後、会費500円で、豪華!? マッコリ懇親会。宋富子さんが川崎から買ってきてくださった韓国海苔巻きは野菜たっぷり、白菜キムチとともに、とっても美味しかったです!
 ここで、私の闘いについて「ヤン・チンジャさんが言われていた正しい歴史教育をしたために右翼の石原知事支配下の都教委によってクビになった社会科教員です」とアピール。裁判闘争を闘いっていることを話し、皆様の共感を得ました。持って言った『たたかう! 社会科教師』(社会批評社)&韓国の3つのテレビ局・英テレビ局の増田報道DVDも完売! また、古野恭代さんは「マンガン記念館」再建についてのパンフを配りながらアピール、こちらも、大いに共感を得ました。最後は、アリランの合唱でシメ!

 次回2009年高麗博物館連続講座「在日の今を語る」第2回は韓国4・3事件の体験者の金 東日(キム・ドンイル)ハルモニのお話で、5月16日(土)17:30〜です。
 皆様、ご都合のつきます方は、ぜひ、ご参加ください。きっと(おなかの中も含め!?)本報告のように! 得るものが、とっても多いですよ。


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