2009/4/27

藤田の日記  [藤田の部屋
 <板橋高校卒業式> 杜撰きわまりない高裁判決!
 ☆☆ 偽証を見抜けない高裁判事は辞職せよ! ☆☆
 ★ 最高裁に『上告趣意書』を提出。 ★

 ■ 「最高裁に公正な判決を求める署名用紙」ダウンロード ↓ (PDFファイル)
http://www.sirobara.jp/090303fujita-syomei.pdf


クリックすると元のサイズで表示します
「大物ゲット」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》

 『藤田の日記』(大野昭之 「勤評反対ストライキ」)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2008/11/18(火)     10  2, 勤評反対ストライキで  愛媛から始まった、「勤務評定」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 3月の役員選挙で、私を含めた三人の共産党員が当選した。
 他に非常勤の反主流Sさんと共に、10数人の執行委員の中で、4人の反対派が誕生した。
 当時は党の指導は全くなく、それぞれの部署で党員が自分の頭で行動するしかなかったが、そのことが自らの責任感を高めると共に、緊張感を持たせることとなった。

 当時組合の最大の問題は、「勤務評定」であった。
 56年に議場に警官隊を導入して強行採決を図った「地方教育委員会法」の廃止と、任命制度教育委員会を中心に、政府の命令がストレートに現場に直通する「地方教育行政の組織と運営に関する法律」(地教行法)の成立によって誕生した「任命教育委員会」は、露骨に政府の代弁者となった。

 愛媛県という保守王国で、県の財政危機に際し、地方財政再建法の適用を受けることになった。
 このため県当局は、教職員の定期昇給分の7割しか予算計上することができなかった。
 つまり、3割の定期昇給をさせないというのである。


 10月1日に発足した任命教育委員会は、教職員の勤務評定を行って、3割の定期昇給をストップする決定を行った。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2008/11/19(水)     11
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 戦後労働組合の結成によって、教員を含めた公務員の定期昇給は100%であり、戦後の運動の重要な既得権であった。
 乱暴にも、その既得権を侵害するために、地公法の中で死文化されていた勤務評定を持ち出したのだ。
 全国の教員に危機感が走った。
 特に戦前からの教員は、校長の恣意による昇級の悪い思い出があった。
 日教組は全国からのオルグを愛媛に集中させ、愛媛教組を支援したが、校長までを含んだ組合組織として校長に勤務評定をさせないことが中心の戦術となり、「不提出の学校に年末手当を支給せず、昇級も行わない」との自民党県議団の教育委員会への申し入れ、文部省も係員を常駐させる等の攻撃の前に苦盃を飲まざるを得なかった。

 文部省は、教組弾圧、学校支配のために「勤務評定」が有効なことを知り、全国化することを計画し、全国教育委員長評議会を使って、基準案を作成させた。
 基準案は、高島屋デパートの勤評を下敷きにしたといわれ、「礼儀は正しいか」「身体や服装が清潔であるか」「身辺の整理、整頓が行き届いているか」は、教員を憤激させた。
 58年4月実施をめざし、文部省は各県を督促した。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2008/11/20(木)     12  闘う意欲が強かった都教組
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 東京の教組は、愛媛等の校長を含めた組合を脱皮して、校長、教頭は組合員でなく、組合の運営は全く平教員によって行われていた。
 その上、対都賃金闘争では、交通、水道、都職、高校、大学と共に都労連を結成し、部分スト、時限ストの経験は豊富であり、砂川闘争では、農民や学生と共闘して、現地での警官隊との激突、勝利の経験を持つ組合であった。
 前回の任命制教委の成立に際しても、戦後教育の危機として「十人学長声明」や多くの父母の自発的街頭署名の中で、日教組のストライキは腰抜けになった経験から、今回こそは全一日のストライキで闘うという機運はあった。

 私たちの直接の目的は、東京が一日ストで勤評闘争を闘うことであった。
 墨田や八王子支部のように、共産党がヘゲモニーをもっている支部からは、本部委員会で、「一日ストライキ」の修正案を出して、決定していった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2008/11/21(金)     13
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 58年初頭から、「勤評基準案」に対する大衆団交が続けられ、その中で教育長が答弁できず、絶句することがしばしばであった。
 3月に入ると、組合員の中に、何時までもこんな問答を続けているのだという声が出始めた頃、本島委員長は、4月1日勤評規則制定のため、今まで続けてきた交渉はうち切ると言明した。

 この緊急事態にもっとも敏感に反応したのが、副委員長の藤山幸男氏であった。
 「入学式ボイコット」戦術の提起であった。
 教師意識の強い組合員の反発必至の戦術だが、私たちは直ちに支持した。
 案の定、組合機関の中で賛否が相半ばしたが、マスコミはこれを大々的に取り上げた。
 そのような中で、都議会議長が斡旋に乗りだし、「組合は入学式ボイコットをやめ、教育長は4月になってからも組合と話しあう」ことに落ち着いた。

 「入学式ボイコット」に反対であった組合員もホッとし、それ以外の日なら一日ストも当然という空気が、組合員の中に広がりだした。
 「悪法も法なり」の修身教育で育った組合員の合法意識は、ストライキの最大の障害であったが、それを克服したのが、佐伯静治弁護団長の名案「措置要求書」であった。
 地公法46条勤務条件に関する措置の要求による要求書の提出は合法的であり、そのために休暇を取るという考えで、何となくこのための休暇なら合法だという錯覚が、組合員の合法意識を満足させた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2008/11/22(土)     14  打ち貫かれた一日スト、そして警察の弾圧
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 勤務評定反対の都教組の一日ストが行われたのは、都教育委員会が規則制定の4月23日であった。
 参加者は98%の完璧なスト突入であった。
 都教組の執行委員であるだけでなく、東京地評の常幹として地評や総評の担当者と当日の支部集会に、他労組の支援動員の割り振りを決める中で、「大野さん、ホントに教員がストライキをやるんですかね。早朝の妥結じゃあないでしょうね」と、何度も念を押され、「賃金闘争じゃないから打ち貫きだ」と答えてきた手前、ホッと肩の荷を降ろした思いであった。
 1万人をこえる組合員が教育庁をとりまく中で、都教委はわずか27分で勤評規則の制定を決めた。
 木下教育委員長(東京学芸大学長)は、傍聴の教え子である組合員の質問に、都職員に守られ、逃げ出した。

 私は、都教組の一日ストは、「教員でもいざとなればストをやるんだ」と、他労組にきわめて大きな影響を与えただけでなく、東京が最初にストをやったことが、その後大阪、福岡、高知、和歌山、群馬等のストの先例となり、勤評反対を全国に宣伝する良い機運を作ったと思っている。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2008/11/23(日)     15
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 スト突入後の4月26日、警視庁は日教組本部及び三役の自宅、都教組本部、幹部自宅など17カ所を地公法違反の疑いで捜査し、幹部の逮捕に乗りだす意図を明らかにした。
 当日正午過ぎ、「さて昼飯でも食いに行こうか」と思っていたとき、私服警察官多数が令状をもって都教組本部に乱入した。
 ちょうど寸前に、3月20日の臨時大会、「最終段階には休暇戦術を行使する」を決定した大会の議事録が、速記社から本になって書記長のもとに届いた所であった。
 書記長は、食事後にゆっくり目を通すつもりで机上に置いてあったが、あっというまに差し押さえられてしまった。

 公務員のストライキは、やるまでより、やった後の方がかえって忙しい事を教えられた。
 それ以後組合に対する任意出頭や聞き込み対策、書類の整理、疎開等、その後のもめた日教組上の山大会、その後の支部幹部逮捕等、あの年の夏休みもなかった。
 
 当時、私は共産党の党員として文京区から千代田区に転属していたが、7月に行われる第7回大会には、組合業務に追われっぱなしで、代議員にもならなかった。

『藤田の日記』
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=fujita63&P=0


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ