2010/4/30

現代の「踏み絵」、「日の丸君が代」  X日の丸・君が代関連ニュース
 もし「踏み絵」を、現代の裁判所に訴えたらどう判定するだろう。
 「幕府が命じているのは『絵を踏め』という外形的行為であって、原告にとっては内面のキリシタン信仰に関わることであっても、一般的にはこれと不可分に結びつくものということは出来ず、憲法19条に何ら反することとなると言えないことは明らかである。」
 と、「踏み絵」は合憲という判決が出てしまいそうだ。


 《時評自評》
 ◎ 現代の「踏み絵」、「日の丸君が代」

永井栄俊(本誌編集委員)

 遠藤周作の小説で「沈黙」と言う作品がある。隠れキリシタンを題材にしたものだ。その中で、長崎奉行の役人が「踏み絵」を迫る場面がある。「形だけ踏めばよいことだ」「さあ、勇気をだして」と。形だけでも踏む行為を「転ぶ」と言う。なぜならば人間である以上、たとえ形だけの行為といえども内心と切り離すことができないからである。
 2003年から始まった都教委による「日の丸・君が代」への弾圧。既に427名の処分者が出ている。起立斉唱等が強制された時、私たちはこれが「踏み絵である」ことを感じ取った。そして401名の原告で「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟」(略称「予防訴訟」)を起こした。憲法に「踏み絵の絶対的禁止」の大原則があることを知っていたからである。そしてその趣旨通り、2006年に違憲違法の勝訴判決を獲得したのである。
 ところがこの地裁判決に危機を感じとった最高裁は2007年2月の「ピアノ伴奏拒否事件」で逆転判決させたのである。


 「君が代」不伴奏処分を「合憲」と判示したのである。結論は明白だが判旨が不明瞭なのがこの判決の特徴であった。判決は伴奏拒否の理由を「社会生活上の信念等である」として、それが憲法19条で保障される対象であることを一旦認めている。ところがこれに続けて次のように判示した。「一般的にはこれと不可分に結びつくもの」ではないと。
 つまり、「一般的」には内心と切り離して形式的に行為されており「歴史観・世界観」を侵害しないというのである。これを「外部的行為論」と言うのだそうだ。隠れキリシタンに役人がささやいたように「形だけでよい」と最高裁が言っているのである。だから19条で保障される「思想良心を侵害しない」という奇妙な論理なのである。

 このピアノ最高裁判決が出された後、それが「日の丸・君が代」関連訴訟の基本判断とされ、次々にこれをコピぺしたような不当判決が続いている。
 2009年3月の処分事件判決では「信念と切り離して不起立行為等に及ばない選択」も「可能」だと言うのである。また従わなかったら「社会秩序が保てない」、あるいは「他の参加者とともに国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する」ことが必要だと判示したものもあった。
 公務員ならば内心と切り離した外部行為が可能だ、というならば「人を殺せ」の職務命令も外部行為で可能だと言うのであろうか。「多数に従え」というのであれば少数の人権はどのように守られるのであろうか少数を守ることこそが司法の役割ではないのか、そんな思いが強い。憲法19条のこの解釈は「司法による解釈改憲」だと言える。これでは基本的人権が空洞化されるだけでなく、民主主義の危機と言える。

 私は、憲法で最も大切なものは平和条項だと考えてきた。しかし、憲法改悪が世論の過半数を占める現実を見ると国民の中に民主主義が定着していなければ平和は守れないのではないかと考えるようになってきた。ところが、この国民主権は個人の基本的人権が保障されていなければ内実化されないとことが訴訟を通して分かってきたのである。基本的人権こそが重要だ。

 被処分者に対する都教委・管理職のいじめ方は過酷である。担任・主要職から外され、頻繁に異動させられた。賃金カットや業績評価によって賃金に差をつけられ、退職後の再雇用も拒否されている。日教組は「日の丸・君が代」に反対しないことを決めており、労働組合からも見放されている。最後の人権保障として司法に訴えたのだが、その司法がむしろ弾圧の側に立とうとしているのである。どこにもやり場のない閉塞社会の状況がここにもある。

 『労働情報』789号 2010.4.15
 http://www.rodojoho.org/


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