2011/12/29

通達だけを根拠の処分は"法の下克上"  X日の丸・君が代関連ニュース
《12・8都高教退職者会による最高裁要請行動から》
 最高裁判所第一小法廷裁判官 様
 ◎ 通達だけを根拠の処分は"法の下克上"
柴田廸春(埼玉県教組元委員長)

 私は、1938年(昭和13年)、東京・下谷(現台東)区で生まれ、育ちました。1945年(昭和20年)3月10日の米軍による空襲で、家をはじめ、一切を焼失してしまい、疎開を余儀なくされました。
 同じ年の4月、疎開先である栃木県のある農村の当時国民学校に入学しました。3年生の時、1学期の途中で、それまでの校長先生に代わって、若い男の先生が担任になりました。その先生は、戦争中海軍航空兵だったそうです。
 私は、その先生に、4年生になるまでの約半年間に、4回殴られました。殴ると言っても、拳骨や平手ではありません。使うのは、四角くて長い木の棒です。先生はそれを「海軍の精神棒」と呼んでいました。その棒を振り上げて、「足を開き、歯を食いしばれ」と言って、坊主頭の真ん中めがけて振り下ろすのです。私の頭には、細長いコブができます。手で触ると、山なりになっていました。
 殴られた理由は、長くなるので、一つだけにします。


 私たちの「教室」は、普通の教室ではなく、校長住宅だった家屋の、畳を取り除いた板敷きの部屋を使っていました。宇都宮の空襲の後、疎開組が急増して教室が足りなくなったからです。そこは、縁側を挟んで、雨戸と障子がありました。
 私がある朝、学校に着いたのが早かったので、一人で雨戸を開けました。その時、立て付けが悪い雨戸が敷居から外れて倒れ、障子の一カ所を破ってしまいました。先生は、「障子を破ってはいけない。破ったら精神棒だ」と前から言っていて、その通りに殴られたわけです。
 殴られたとき、痛いより、悪いことをしたわけでもないのに、殴られる悔しさで涙をこぼしました。その時受けた心の傷は、今もって消えていません。これは、私一人でしたが、あとの3回は、数人の仲間と一緒でした。
 後で分かったのですがこの時期(1947(昭和22)年)、日本国憲法、教育基本法、学校教育法がすでに施行されていました(憲法は同年5月3日、他は3月31日施行)。学校教育法第11条では、「体罰禁止」も規定されていました。しかし、私がいた教室に、それは届いていませんでした

 私がここで言いたいことは、「たてまえ」(法の制定)と「実態」学校現場で、守られるべき法が守られていない)との乖離、あるいは位相差です。これは、「国旗国歌法」制定の際の「付帯決議」、「官房長官談話」(「決して強制されるべきではない」)等が、東京都においては履行されていない、という事実においても実証されています。
 2003年10月23日付、東京都教育委員会教育長名の「通達」だけを根拠に、「不起立」を理由とした「戒告」処分(昇給延伸の実害を伴う)(2度目は「減給」)は、「法体系」を逸脱する「行政優位」の措置ではないでしょうか。専門外の私は、これを敢えて「法の下克上」と言えるのではないかとさえ思います。
 加えて、定年退職後、希望する全ての人に開かれていた「再任用」「再雇用」の道を、「被処分者」全員に対して閉ざし、「不採用」としたことは、年金支給年齢の引き上げに伴う受給額の減少、将来設計に関する展望の縮小等、生活権そのものを脅かす結果を生んでいます。
 果たして、「不起立」が、学校運営上そこまで損害を及ぼすほどの「障害」を生じさせたのかどうか、甚だ疑わしいと、私は考えます。

 私は、最初の8年間を公立高校の教員、あとの33年を公立中学校の教員として勤務しました。この間、組合役員をしていた際、主として、「人事委員会勧告完全実施」など、賃金改善を目的とした組合の「ストライキ」を「あおった」という理由で(「地方公務員法」違反行為)、年度別に戒告、減給、停職(3日)等の懲戒処分を受け、何れも「処分不当」として提訴しました。
 これらは、それぞれ数年を経過した後、裁判所の仲裁により、すべて「和解」が成立しております。本訴においても、東京都教育委員会の「処分」が、明確な法規に基づく、法に則った手続きによるものであるのかどうか、最高裁判所の公平、公正なるご判断を、心から要請いたします。


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