2015/7/29

2人の祖父が共有する「集団自決」という戦争体験  ]平和
 ◆ 知花くららさん “祖父”でつながる沖縄戦
   pokke104さんと初対談
| 沖縄タイムス

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 ○知花くららさん(ちばな・くらら) 1982年、那覇市生まれ。上智大卒。2006年ミス・ユニバース世界大会2位。現在、モデル、リポーターのほか、国連WFP日本大使として活躍する。昨年11月から本紙くらし面でエッセー「いちゃりばくらら」(毎月第1水曜日)連載中。
 ○pokke104さん(ぽっけいちまるよん) 本名・池城由紀乃 1980年、沖縄市生まれ。独学でイラストを描き始め、2002年、県内で開催されたアートフェスへの参加をきっかけに活動開始。多くの広告やテキスタイルデザインを手掛けライブペイントなども開催。06年サントリーミュージアム賞受賞。

 沖縄タイムスくらし面に連載中のエッセー「いちゃりばくらら」(3日付)で、知花くららさん(33)は、座間味村慶留間島で起きた「集団自決(強制集団死)」の生き残りである祖父のことを書いた。


 エッセーをきっかけに、イラストを担当する、pokke104(本名・池城由紀乃)さん(35)が、祖父の家族が読谷村のチビチリガマで「集団自決」したことを打ち明けた。

 エッセーに携わる2人の祖父が共有する「集団自決」という戦争体験。現在、ともに東京を拠点に活躍する2人を訪ね、祖父の体験、沖縄戦を語り継ぐことについて聞いた。(聞き手=学芸部・高崎園子)

 ※命の足跡をデータで検証「沖縄戦デジタルアーカイブ」
http://www.okinawatimes.co.jp/sengo70/

 ■「集団自決」の生き残り
 −戦後70年、沖縄は節目の「慰霊の日」を迎えます。何か思い出はありますか。

 知花くららさん 那覇市の真嘉比小学校の出身ですが、6月になると学校の入り口に沖縄戦の写真が張り出されたのを覚えています。

 真嘉比は沖縄戦の激戦地。今は区画整理されていますが、人骨が見つかったり、学校の裏手に薬きょうがたくさん落ちていたりしました。そんなこともあって沖縄戦は小さなころから身近にありました。

 pokke104さん 実は私にとっての「慰霊の日」は4月2日なんです。読谷村のチビチリガマで祖父の家族が「集団自決」した命日です。子どものころ、よく家族でガマを訪れ、掃除をしたり、線香を供えたりしました。お墓参りのような感じです。母に、そこで起きた事実を初めて聞かされた時は、かなりショックを受けたのを覚えています。

 −お二人のおじいさんには「集団自決」の生き残りという共通点があることが分かりました。おじいさんの体験を聞かせてください。

 知花さん 母方の祖父は座間味村慶留間島の出身で、島で起きた「集団自決」の生き残りです。1945年3月26日、米軍が上陸し、住民はパニックに陥り、逃げ惑いました。米軍に捕まるくらいなら死ななければならないと、山中の木に首を吊(つ)って死んでいったそうです。

 祖父は当時15歳。一緒に逃げていた姉の首を絞め、自身も、クバの葉を使って自分の首を絞めようとした。しかし、「死んだらだめだ」という声がどこからか聞こえ、最終的にきょうだいは死なずに生き残りました。

 pokkeさん 母方の祖父の父や姉など家族6人が、読谷村のチビチリガマで亡くなりました。祖父の父は、米軍に竹やりで向かっていって撃たれて亡くなり、祖父の姉ら5人が「集団自決」で亡くなりました。

 「満州」で従軍看護婦をしていた祖父の姉は、結婚の報告をするために沖縄に戻ったところで戦闘に巻き込まれました。彼女は「満州」で日本兵が住民にした残虐な行為に触れ、「軍人は残酷な殺し方をする。軍人なら、日本兵も、アメリカ兵も同じ。自分たちで死んだほうがきれいに死ねる」と、持っていた毒薬を家族や親類に注射しました。

 祖父は特攻隊員で、あと1日で突撃するという時に敗戦の知らせを受けた。戦後、読谷に戻り、家族の悲劇を知らされることになりました。
 祖父は、姉たちのことで相当つらい目に遭ったようです。チビチリガマで亡くなった6人の家族は当初、集落の慰霊碑に名前を刻銘されず、祖父は相当悔しい思いをしたようです。仏壇の前で泣き崩れる姿を、伯母が見ています。

 祖父は、家族を忘れるために大酒を飲むようになり、アルコール依存症になりました。

 ■沖縄と東京 違う戦争観

 −終戦後も、おじいさんたちにとって戦争は続いていた。

 知花さん 私が祖父の体験を聞いたのは大人になってからでした。2007年、報道番組で現地を一緒に歩きながら、祖父はいろんな話をしてくれましたが、慶留間島に行くのも、「集団自決」の話を聞くのもその時が初めてでした。

 祖父が「生き残って悪かった」と泣きながら言った時、「なぜ?」と思いました。祖父が生き残ってくれたから、私の母がいて、私がいるのにって。

 自分が祖父の体験を知らなかったことがショックだったし、祖父が心に傷を負い、まだそんなふうに引きずっていることに本当にショックを受けました。

 −お二人は現在、東京にお住まいです。東京と沖縄で戦争や平和に対する意識の違いを感じることはありますか。

 知花さん 大学生のころ、同級生に言われたことがあります。「うちのじいちゃんは、戦争で国のために戦ったってすごく誇らしげに話してくれてさ」って。「手榴弾(しゅりゅうだん)って何?」と聞かれたこともあります。私たちにとっては当たり前の言葉だけど、何人かの同級生たちにとってはそうじゃなかった。地上戦があったというのはこういうことなんだなって

 もちろん本土でも、空襲などがあって、経験は語り継がれていると思いますが、戦争観は違うと感じます。

 pokkeさん 戦争について考えている人はいろんな場所にいます。ただ、沖縄には多くの米軍基地があり、より強く戦争について感じることがあると思います。

 ■ 「平和のバトン」未来へ

 −沖縄戦の体験者がどんどん少なくなる中、どう体験を引き継いでいけばいいと思いますか。

 pokkeさん まずは今健在の体験者から話を聞くことですよね。元ひめゆり学徒の戦争体験講話が終了したというニュースなどを耳にすると焦ります。

 祖父は亡くなる間際、一生懸命、何かを書き始めた。何を書いているか分からないんですが、戦争のことのようで、何か伝えたかったんだと思います。私の家族は、生きている間にもっと戦争のことを聞いておけばよかったと後悔しました。今は、未来に平和のバトンを渡すための大事な時期だと思います。

 私自身は、自分ができる、絵を描くことを通して、平和につながることをしていきたい。

 知花さん 最近思うのは、体験を聞いた後、どうするかが大きいんだということ。自分の頭の中にあるだけでは、ほかの人は分かってくれない。私の場合は、インタビューしていただける機会が多いので、そういう場で話ができればいいなと思っています。

 例えば、私にとって、祖父が苦しみながら戦争を生き抜き、いまも苦しんでいるというのが沖縄戦の事実です。沖縄には、実際に血を流した人たちが身近にいるわけです。そういう事実を伝えていきたい。

 「命どぅ宝」と言いますが「どんな状況にあろうと、命より大切なものはない」ということを、沖縄に生まれた私たちは伝えることできると思います。

 [ことば] 座間味村慶留間島の「集団自決」
 米軍が上陸した1945年3月26日、事前の日本軍による「玉砕」の訓示などから、追い詰められた住民は、山中の壕などでひもを使って首を絞め合ったり、吊(つ)ったりして、53人が亡くなった。

 [ことば]読谷村チビチリガマの「集団自決」
 45年4月2日、米軍上陸海岸に近いチビチリガマに避難していた読谷村波平の住民ら約140人のうち83人が、火を付けた布団の煙で窒息死したり、毒薬注射で亡くなった。ガマにいた中国従軍経験者が中国での日本軍の残虐行為を語ったことで、住民は米軍の捕虜となる恐怖心で、追い詰められた。前日には竹やりで米軍に向かっていった住民のうち2人が機関銃で撃たれ、その後亡くなった。

『沖縄タイムス+プラス』(2015年6月23日)
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=121110


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