当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2018/12/15  22:00

差別discriminationは良心の麻酔薬  差別と人権

差別discriminationは、なぜ危険なのか?


先日の投稿「差別discriminationは、処罰されるべきか」では、差別を一律に処罰の対象とすることは、差別という性質上慎重であるべきだと主張しました

そうならば、私は差別に対してかなり寛容なのかという印象になりますが、そうでもないのです

差別行為とその思想や価値観を、他の刑事事件とまったく同様に摘発し処罰すればいいという意見には、国家権力による思想管理を正当化するという観点から、私は反対です

しかしながら、私はどんな小さな差別も、等閑視したり放置すべきではないと思います

なぜならば、差別discrimination行為とその思想や価値観は、人を人でない存在にして、排斥rejectionや暴行violenceや絶滅genocideを容易に実行する良心の麻酔薬のような作用をもっています

あの数百万人とも伝えられているホロコーストholocaustも、対象者を「生きていて無意味で有害な存在」に差別・格下げしたことによる必然的な帰結です。人間の尊厳性を否定したら、いとも簡単に人を殺せてしまうのです

良心があったら、どのような人であれ、暴行し殺害することに抵抗するでしょう。しかし、一旦差別心に麻痺した精神は、天文学的な数の人の殺戮をいとも簡単にやってのけます

差別は集団殺戮や暴力の前提となるのでから、注意を払い、その芽を摘んでおかないと、あの悪夢が夢でなく、現実となること必定です

差別discriminationは、意識化されなければなりません

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タグ: 差別 麻痺 絶滅

2018/12/1  8:00

倒錯と錯覚  余禄 エッセイ

倒錯と錯覚


変わることを
変わらないものと思いこみ

変わらないことを
変えようと空回りする




人はことばという文化をもって、社会的な人間となり、ことばが作り出す世界を現実と思いこんでいます

神、貨幣、国家そして生命そのものすら、ことばによる虚構です

虚構の織り成す世界を離れて、人間は生を営むことはできませんが、所詮は虚構なのだということを、肝に銘じておくにしくはありません

倒錯と錯覚の破綻した裂け目から、真実は開顕されます
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タグ: 言語 虚構

2018/11/28  5:00

人権思想の本当の起源とは?  差別と人権

人権(human rights)思想の起源に関する定説考

人権(human rights)という独立した概念の初出ははっきりしない

あまたの辞書や概論書などが、イギリスの思想家・ジョン・ロックJohn Lockeの『統治二論』Two Treatises of Government 1690を、近代人権思想のはじまりとしているが、この定説は覆るか少なくとも修正が必要もしれない

「人権(human rights)」という社会的概念が登場した歴史は、一般の予想に反して、さほどは長くはない

定説では、ヴァージニア権利章典 Virginia Bill of Rights 1776とされるが、原文に「第1条 全ての人は生まれながらにして等しく自由で独立しており、一定の生来の権利を有している。それらの権利は、人々が社会のある状態に加わったときに、いかなる盟約によっても、人々の子孫に与えないでおいたり、彼らから奪うことはできない That all men are by nature equally free and independent, and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity」とあるだけで、必ずしも人権(human rights)という単語が概念として確立されていたのではない

さらには、前記のヴァージニア権利章典やアメリカ独立宣言 United States Declaration of Independence 1776 や有名なフランス人権宣言(人〈男〉と市民の権利の宣言 Declaration des Droits de l'Homme et du Citoyen 1789)および、これらに核心的な影響を与えたとされるジョン・ロック John Locke の『統治二論』Two Treatises of Government 1690 にも単に「人(男)の・・・権利」とあるのみであって、独立した人権(human rights)という概念はこの時期には存在しなかった。とするならば、従来の人権思想の教科書の定説はその積極的根拠を失うことになる


人権(human rights)なる用語が独立した概念として登場したのは、世界人権宣言 Universal Declaration of Human Rights 1948 以降である

人権とは現在 human rights の訳語として定着はしているが、その厳密な起源は1948年以上にさかのぼることはない

以上の新たな知見からすれば、従来の人権(human rights)思想の淵源やその展開についての定説を再考する必要が生じるし、さらに人権(human rights)が人類史に比してこれほど浅い歴史しかもっていないということになれば、その正当性や不可侵性という原理についてもあらためて再解釈しなければならなくなる

人権思想は これほどまでに 現在でも不確定なのである
んな状態でよくも「自明な、人類普遍の不可侵の権利」などと暢気でいられようか!

さらに、従来はいわゆる人権の教科書にはほとんど採り上げられなかったある書籍がある意味、重要な人権(human rights)のルーツとなりうることも仮説として提示したい(以前の論攷ですでに発表)


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2018/11/20  20:20

差別は処罰されるべきか  差別と人権

差別discriminationは処罰されるべきか?

今日現在、さまざまな差別discriminationに対して、日本の国内法では、禁止・処罰する法規がありません
あからさまな暴力や侮辱におよぶ行為については、罪刑法定主義(あらかじめ罪に当たる行為とと刑罰を定義)にもとづく刑法処罰が定められています

近世・封建体制までは、仇討ちなどの私刑が部分的に認めていましたが、仇討ちという復讐がいつも効を奏するとは限らず、逆に返り討ちで終わってしまうことも多々あります。日本が近代的社会になっていく段階で、私刑は野蛮な封建遺制として一律廃止されて、処罰の決定と行使を国家組織に委託されています

それならば、差別行為も犯罪と規定してこれに相応しい刑罰やペナルティを課せばいいという考えも一理ありということにもなります

しかし、他の犯罪とは異なり、差別discriminationは、ある恣意的な属性や帰属集団を、単純に善悪・優劣・上下などの価値に短絡するという思想や価値観という問題が背景にあるのです

あからさまな暴行や排斥や侮辱については、従来の刑法による処分が適切ですが、差別は具体的行為以前の認識・判断・意志などの人の意識全般や差異を顕在化する言語活動そのものが関わっています

これを直接に処罰の対象とするということは、ある個人の思想や信条を国家が罰する権力を復活させるというアナクロニズムになります

国家や政治権力は、個人の内心を処罰してはならないという歴史的格率が崩壊することによる被害は甚大です

これはまったく笑えない野蛮時代への退行です

差別を憎む気持ちは同感しますが、この善意がさらに狡猾な政治権力に取り込まれて、ディストピアの出現を約束します

差別への処罰は慎重でなければなりません
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タグ: 差別行為 犯罪 処罰

2018/11/15  20:00

人権思想へのカタバシス 補遺#4  特別公開論文

●人権思想へのカタバシス 補遺4

「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」の正解へ反論する


拙論「人権思想へのカタバシス」(正規版)のなかで、「人はなぜ差別してはいけないのか?」や「人はなぜ人を殺してはいけないのか」という設問をしました

この問いに対して、私はローマ法の占有possessio,possession原理にもとづいて解答を導きだしていますが、私の答えは一般的ではありません。というかほぼ独自の見解です

これを見ている有識者は、おそらく「そんなことも知らないのか!イギリス哲学者トマス・ホッブズが三百年以上前に正解を出しているのに」とおっしゃっることでしょう

ホッブズの正解というのは、「万人の万人にたいする戦闘状態」という逆推論です

ホッブズの逆推論は、有名ですので、あえてここでは引用しません。要は、もし人に殺人行為を認めてしまうと、トンデモない社会になるから、殺人は認めないとするのが合理的であり理性的なありかたであるという推論です

ホッブズの論はよくできていますし、人権の教科書にも紹介されていますが、私はごまかされません

私はホッブズ先生に敬意を抱いていますし、その敬意ゆえにあえて反論します

反論1
タイムスパンが短い

今から三百年前の正解とはいえ、こんなこと(殺人は認めない)に人類が気がついたのは、文字もない先史時代からですから、あまりにも時間の射程が短いのです

反論2
仮想条件の非現実性

ホッブズ先生が推論のために提示した「もし人に殺人を認めてしまったなら」という仮想条件があまりにも非現実的で荒唐無稽な絵空事ですから、最初から現実にはあり得ない理性にも反する結果になることはある意味当然です。仮想条件設定の時点で「殺人は不合理である」という結論を先取りしています。科学的推論とは程遠い稚拙な言述です

反論3
理性の過信

近代合理主義は、人間の理性へのおおらかな希望と過信があります
ホッブズは「万人の万人にたいする戦闘状態」の危機状態を回避するために、人は自然法の理性に回帰するとします。しかし、人間の理性や行動がホッブズの言う通りに展開するというのは、多分に希望的観測に過ぎません。現代史のホロコーストやさまざまなジェノサイドの事例をもちだすまでもなく、ホッブズ先生の理性にたいする過信は、哲学的判断を歪めています。人間はそんなに理性的な動物ではありません。だからと言って、最初から野蛮なだけの怪物でもありません。野獣だって四六時中殺生だけしているだけではありません

反論4
権利状態と行使段階との混同

仮に「人に殺人行為を許したとしたら」という仮定は、リアリティーがまったくないことは先ほど述べましたが、仮にそのような権利が認められたとしても、逢う人を無差別に殺傷するわけにはいかないし、殺すべき人とそうではない人がいるはずです。権利状態と実際の行使とは
異なるのです。ホッブズ先生の言う「万人の万人にたいする戦闘状態」にはならないのです。ですから、ホッブズ先生の逆推論はそのままでは成り立ちません

反論5
政治的合意や思弁の対象とはならない

殺人の正当性や差別の合理性ということについて、いろいろと哲学的思索をすることは自由にできますが、人間の生命と尊厳性についてその有無や死活については、思弁の対象とすることや政治的な合意形成による決定には馴染まないものです。仮に議論の結果、「あなたは死ぬべきだ」という政治決定が下されたとしても、こんな勝手な押しつけじたいが占有possessio,possession侵害です


ホッブズに限らず、ロールズ『正義論』でも、なぜ差別してはいけないかについて、逆推論をしていますが、一種の詭弁のようで、なんとも釈然としません

何でもかんでも、議論して合意形成すればいいということではなさそうです

政治的議論や思弁の対象とはならないことが、人権(human rights)の土台にあるのです
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