当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2018/11/10  5:00

死刑違法のカタバシス  差別と人権

暴力否定論者が 究極の暴力を推奨することの怪

拙論「人権思想へのカタバシスcatabasis」を執筆するにあたって、「ローマ法roman law」というまったくはじめての分野に分け入ることになりました

ロマニストの碩学、木庭顕〈こば・あきら〉先生の浩瀚・超難解なローマ法関係の最近の著述(ただし論旨は明瞭そのもの)を一行一行読み解いていくなかで、(ラテン語専門用語が何の注釈もなく出ていて難渋しました)「暴力」の問題点がローマ法の蓄積によってかなりクリアになってきました

巷間の時事ネタでは、スポーツ界の暴力事件はじめさまざまなパワーハラスメント(権力による嫌がらせ)、セクシャル・ハラスメント(性的嫌がらせ)が、それこそ連日のように報道され、その関係者はあたかも人民裁判で断罪されるように扱われることへの違和感が日増しに強くなるのです

もっとも、私はスポーツそのものにあまり興味も関心もありません。所詮スポーツというのは、ある種の暴力的行為(たとえば格闘技など)にきびしいルールという箍をはめて大衆のレジャーに供するものというとても冷めた目で見ていますから、そのスポーツと暴力行為とはある意味で地続きではないかと思っています

だからといって、指導者や先輩らによるさまざまな暴力行為等を容認する気持ちはさらさらないのですが、これほど暴力断罪と排除を大合唱するマスコミや市民については、本当に暴力が悪いと思っているのだろうか? とたいへん疑問に感じています

万民に適用可能な法律という便利なツールを発見・創造したローマ人は、不法行為を占有(possession)侵害という基準でみて、身体や精神というその人にとって不可分の領域を侵す行為が「暴力」「実力行使」としています

そのようなローマ法の原則に照らして、死刑を含む身体的刑罰はどう解釈されているのでしょうか? 木庭先生の次の指摘がたいへん明瞭で有益です

「今日死刑が違法である理由は単純で、それが身体刑であるからである。残虐な刑罰とは身体刑を意味する。身体を傷つけずに死をもたらすことはできない。鞭打ち刑が違憲であることは誰でもが承認するであろう。体罰への嫌悪を誰もが共有するであろう。それでいて死刑を残存させればそれはただの矛盾である」
『新版 ローマ法案内』p.46 2017/10/30

暴力反対を絶叫する論者やマスコミが、究極の暴力行為である死刑制度を糾弾しているかと思いきや、そんなことはないのが現実です。遺族の処罰感情がどうのこうのという刑罰とはあまり関係のない視点で、法の問題が朝日新聞の特集で語られています。要するに暴力否定なんていうことは信じてもいないのでしょう。政治的に体制批判ができる道具として使っているような欺瞞を感じます

でなければ、木庭先生のことばを借りると、

それはただの矛盾である

ということになります

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タグ: 死刑 身体刑 catabasis




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