当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2018/10/30  4:00

人権思想へのカタバシス 補遺♯3  特別公開論文

●人権思想へのカタバシス 補遺♯3
人権思想の宗教への倫理的効用



宗教教団とそこに所属する職業宗教者は、世俗社会からは聖別され権威化される。この聖別と権威化への営みは、必然的に独善的な閉鎖空間を現出する。聖なる教団と宗教者といえども、その実際の担い手は、欲望を抑えがたい生身の人に過ぎないから、さまざまな罪過を犯しても不思議ではない。世俗社会であれば、人の過ちは日常茶飯であるから、それを組織的に隠蔽したり、無関係なことがらにすり替えたりはあまりしない。しかしながら、教団と宗教者は、聖別された至高の権威であるが故に、罪過はその軽重にかかわらず、あってはならないことになる。教団は自らの神聖な権威を傷つけないために、罪過の事実を伏せたり、宗教的な詐術で正当化したりすることが往々にして起きる

そのような宗教教団とそこに所属する職業宗教者たちの不正や不品行を抑止し、宗教的に更生させるため、宗教の神聖性や権威に取り込まれない外なる倫理規範が必要となる。その倫理規範の基準点は、いまのところ基本的人権 fundamental human rights しか存在しない。人権思想のもとでは、俗人か聖別された宗教者かという資格は、顧慮されず、ただ「自分にしてもらいたいように人に対してせよ」という黄金律または「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」という銀色律に照らして正邪の判定を受ける。そのような意味でも、宗教にとって人権思想は相対立する世俗倫理ではなく、逆に宗教性を下支えする土台ともなりうるのだ

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タグ: 人権 宗教




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