当ブログの運営者は工藤英勝です 近代仏教史家で、とくに近代仏教と東アジアとの関係論に関心があります このブログではとくに朝鮮と日本宗教にかかわる問題とくに植民地布教についての資料とデータを提供いたします 大きな歴史認識や歴史解釈ではなく、諸事象と人間がどう動いていたのかを解析していきたいと思います 資料やデータにかかわる具体的なお尋ねには回答いたします

2018/11/15  20:00

人権思想へのカタバシス 補遺#4  特別公開論文

●人権思想へのカタバシス 補遺4

「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」の正解へ反論する


拙論「人権思想へのカタバシス」(正規版)のなかで、「人はなぜ差別してはいけないのか?」や「人はなぜ人を殺してはいけないのか」という設問をしました

この問いに対して、私はローマ法の占有possessio,possession原理にもとづいて解答を導きだしていますが、私の答えは一般的ではありません。というかほぼ独自の見解です

これを見ている有識者は、おそらく「そんなことも知らないのか!イギリス哲学者トマス・ホッブズが三百年以上前に正解を出しているのに」とおっしゃっることでしょう

ホッブズの正解というのは、「万人の万人にたいする戦闘状態」という逆推論です

ホッブズの逆推論は、有名ですので、あえてここでは引用しません。要は、もし人に殺人行為を認めてしまうと、トンデモない社会になるから、殺人は認めないとするのが合理的であり理性的なありかたであるという推論です

ホッブズの論はよくできていますし、人権の教科書にも紹介されていますが、私はごまかされません

私はホッブズ先生に敬意を抱いていますし、その敬意ゆえにあえて反論します

反論1
タイムスパンが短い

今から三百年前の正解とはいえ、こんなこと(殺人は認めない)に人類が気がついたのは、文字もない先史時代からですから、あまりにも時間の射程が短いのです

反論2
仮想条件の非現実性

ホッブズ先生が推論のために提示した「もし人に殺人を認めてしまったなら」という仮想条件があまりにも非現実的で荒唐無稽な絵空事ですから、最初から現実にはあり得ない理性にも反する結果になることはある意味当然です。仮想条件設定の時点で「殺人は不合理である」という結論を先取りしています。科学的推論とは程遠い稚拙な言述です

反論3
理性の過信

近代合理主義は、人間の理性へのおおらかな希望と過信があります
ホッブズは「万人の万人にたいする戦闘状態」の危機状態を回避するために、人は自然法の理性に回帰するとします。しかし、人間の理性や行動がホッブズの言う通りに展開するというのは、多分に希望的観測に過ぎません。現代史のホロコーストやさまざまなジェノサイドの事例をもちだすまでもなく、ホッブズ先生の理性にたいする過信は、哲学的判断を歪めています。人間はそんなに理性的な動物ではありません。だからと言って、最初から野蛮なだけの怪物でもありません。野獣だって四六時中殺生だけしているだけではありません

反論4
権利状態と行使段階との混同

仮に「人に殺人行為を許したとしたら」という仮定は、リアリティーがまったくないことは先ほど述べましたが、仮にそのような権利が認められたとしても、逢う人を無差別に殺傷するわけにはいかないし、殺すべき人とそうではない人がいるはずです。権利状態と実際の行使とは
異なるのです。ホッブズ先生の言う「万人の万人にたいする戦闘状態」にはならないのです。ですから、ホッブズ先生の逆推論はそのままでは成り立ちません

反論5
政治的合意や思弁の対象とはならない

殺人の正当性や差別の合理性ということについて、いろいろと哲学的思索をすることは自由にできますが、人間の生命と尊厳性についてその有無や死活については、思弁の対象とすることや政治的な合意形成による決定には馴染まないものです。仮に議論の結果、「あなたは死ぬべきだ」という政治決定が下されたとしても、こんな勝手な押しつけじたいが占有possessio,possession侵害です


ホッブズに限らず、ロールズ『正義論』でも、なぜ差別してはいけないかについて、逆推論をしていますが、一種の詭弁のようで、なんとも釈然としません

何でもかんでも、議論して合意形成すればいいということではなさそうです

政治的議論や思弁の対象とはならないことが、人権(human rights)の土台にあるのです
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