
今朝の外気温は2度表示、なれど体感温度は優にマイナス2度とヤハリ冬模様。霜もしっかり降りてもいたし、ナント種子島屋久島辺りも霜注意報が出たらしい。北九州なんかは4〜5度と南よりもヤヤ暖かいのはヤッパ九州山地の屋台骨を吹き撫でて来る北風のせいもあろうか。来年の寒さならばもっと冷え込むだろうけどね。
さてと画像処理を編集してなかったから、横向になったがマァええか〜二階に放置してた本の中から取り出したのがこの、司馬遼太郎の『陸奥のみち 肥薩のみち』(朝日文芸文庫)’78刊〜承前、街道を行くシリーズ3。もう随分と前の紀行文でチト古ぼけた感じもしないでもないが、やはり文芸ものとしても読めるし又優れた取材記事でもある。新聞記者をやってた作者の記事、フムフム成る程なるほどと読んでもゆけるのが良い。けどジックリとその豊富な知見知識を裏打ちしようとすれば、ヤッパ一つ一つが膨大な資料史実に当たらねば成らんかも。取り敢えずはそのまんまで受売りもしようと思ったのが、自身も未踏の地の河内〜大阪南部か〜大体、何で河内カワチって読ませるかも知らんほど、河内音頭ナンテチョー有名なのにね。
けどこの地は太古より例えば河内王朝とかも出る程に大阪が栄えた以上に歴史上は由緒ある地名でもあるのも一応は頭には浮かんだのだけども、ヤッパ知らない土地柄ではあるからして、偶々だったが東北南部地方と対して九州南国とを比べ合わせてもまた別の視点を提供もした紀行文に目を見張る事柄が登場したので、先ずはそこから。
▼西行は、平安末期、藤原体制がくずれてゆく世相をつぶさに見た人である。保元・平治の乱も見たし、敗亡した武家の棟梁の源義朝があっけなく誅伏され〜かわって平清盛が日の出のように勃興して武家のあがりながらたちまち太政大臣になるという奇跡も見た。さらに平家一門の夢のような栄華も見たし、〜〜時代をつくるのも〜やがて没落するのも〜木曾義仲の出没も〜その没落も見て歌を詠んだ。西海における義経の奇功も耳にし、頼朝による鎌倉幕府の成立も〜。
流石は元新聞記者、まるで観てきた様に平然と世の中に蔓延した歴史なる説を言挙げして簡明に列挙して、西行が伝記を簡明に教えてくれる。フムフム成る程ー〜^_^
▼西行は都そだちだけに、宮廷人とのつきあいがふかく、次いですでに公家化してた平氏のひとびとともつきあった。坂東の田舎武士との接触はすくなかった。しかし〜当代有数の武人であった〜鎌倉にくだったとき頼朝が彼を召し、弓馬の道の極意をきこうとした。〜固辞したが、頼朝がしつこくききたがったためついに徹夜でそれを語った。頼朝はそれを侍臣に筆記させた。
西行はこのとき六十九歳であった。この高齢でなぜ関東にくだらねばならなかったのか、真相はわからない。
ホントドラマチック、大河何とかのナレーションみたいにスラスラと読めるし飲み込める。嘘か誠かホントの事は判らんけど、そう語る天下の司馬遼太郎がココに居る。信じるしかない。最後に来て司馬自身も何故かどうして鎌倉幕府に出向いたのか解らないと書いたのだから。
しかも続けて、また西行は関東ばかりか、ずっと後に俳聖芭蕉が辿りゆく奥州は平泉へとまでも足を伸ばしたと書く。歌一首もまたキチンと紹介してある。
★年たけてまた越ゆべしと思ひきや命(いのち)なりけり小夜(さよ)の中山
▼機内に帰ったのは七十歳の春ごろだったであろう。やがて南河内の山中の弘川寺に身を寄せ、病むのである。
この一行から私はこの「弘川寺」の文を読み始めたのだって。ちょうど今の自分の年齢に同じだからでもある。西行が眠る地はそうなのだ、大阪でも鎌倉でもなくその南河内の山中、弘川寺という。

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