
まったく酷い雨だった〜予報では例年に無い豪雨で災害警報発令、避難勧告まで出されて堤防決壊の恐れあり、と様々な危険情報が飛び交い携帯のアラームが鳴り響いた。
絵は池田病院の左手の肝付川(きもつきがわ)が堤防から溢れて左側流域に広がった早苗(さなえ)田が水浸しとなり、まるで小さな湖見たく見える状態。田植が終わってひと月位しか経ってない。
何故にコンナ酷い状態となったのか?
国土交通省による計画無き河川堤防改修←改悪なんだが〜の結果、元々は自然に現象的に構築された自然の河川の流れを、土堤が決壊したからと護岸改修した結果、ますます急峻な流れとなって下流域へ一気に水嵩が増しながら水流も増えて溢れ出した結果、又もやもっと人工の手が入ってない自然のままの部分との継ぎ手の箇所からのもっと酷い土堤の決壊か起きるのだ。

およそ半日後の夕刻は7時頃の絵、川の上手の方から土砂と共に泥水が土堤から溢れて田んぼへ流れ込んだ様子が見て取れる。
即ち泥水が減水し出して植わった早苗もどうにか無事に残って見える、コレで上手の方は生き残った感じ、田の持ち主の安堵が聞こえる、が問題はヤハリ水が完全に引いてしまった後に溜まった泥の除去。際左手の泥水の湖面と見える際に本来の用水路、小さな溝川が流れてるのだが〜其処と農道との見境がこれでは未だ付かない、がその内に出現するだろう〜けれども乗り重なったヘドロ状の泥土がズブズブで完全に乾かねばとても歩けたモンじゃない、まだ後3〜4日はかかろう、農夫の手が入るのは。


上掲の川が左にほぼ直角に曲がりくねる、その上手の様子〜上流〜が、この画面。
いつもは水清い流れを見せているが一度土砂降りの大雨が降れば途端に激流がこうして発生するのだ。
こんな状態は私が子供の頃には滅多に見られなかった。
川の水面とほぼ同じ位の位置にあった下手の田んぼは水浸しになったが、排水がしっかりとしていて雨が止んだら途端に水位も下がり、元の田んぼが現れる。
それが繰り返して来た、けれども少子高齢化で田の持ち主の担い手も高齢化となり、不在地主も現れて結果、水利組合の発言は川の堤防の護岸工事の改修依頼を陳情する事になる。すると国の土木事業として国土交通省の役人の目は卓上の空論で、川と堤とを固定化すれば良しとしてコンクリートで直線状、偶には湾曲もしてるが〜凡そ百m程を1年か2年、時に3〜4年も掛けて土木会社に委託する。そこには国の予算が計上されるから事業費は当然にも入札競争となるが、ソコは田舎の慣れで密かな談合〜暗黙の了解事項としての独占と馴れ合いのおこぼれ〜徒弟制度的な慣習が蔓延る世界、土木工事会社間の馴れ合いもあり、いつもより長い工期の官制工事となるのだ。勿論そこには当事者の筈の地元農民の意見は入らない、役人お任せの河川改修が為される、結果、こうした偶に起きる激甚災害には対処不能で被害が余計に拡大する結果となる。被害が景観や農作物だけならば世間の目も仕方無いなぁと大変だね〜位で見過ごすのだが、そこに人身被害が出てから原因究明〜となる。それではもう遅いのだ。亡くなった人の命は還らない、カネの保障しか役人はしないのだ。その事が人民、臣民、お百姓は解らない、そう考えるしかない。カネが結果的に解決すふ、ソンナ時代となった。
日本の戦後の農政、それがこうした結果となった。
先祖代々、子子孫孫末代〜末裔までも土地を手放さずに米作りに従事した結果、ではない。何処かでそんな因習や習慣や生活の歴史性が何かしら狂ってしまった。先ずは上げられるのが先の国の農政、そしてそのお先棒を担ぐ地元の農政担当者たち。地方自治体や農協も含めて能の無い連中が、クニの求めるがママに地方開発の急先鋒として無意識的にも担った結果、耕作放棄地の目に見える増加となった。それは取りも直さず自然との共生なんぞ見捨てた、単なる土地利用〜としか見ない無策の構図が露わになったとしか見えない。
自然現象のせいにしてはならない、やはり人間が奢った結果がこうして見るも無惨な被害を招いたとしか見れない。
画の上手の方にも古来ずっと田んぼが広がってた、のだが写真でも判ろう上1/3は完全に耕作放棄地、その堤部分から泥水が溢れ出して又も元の流れに戻った〜未だ護岸工事が為されない自然のままの川の流れ、耕作しないから排水も取水もされなかった〜水との共生が不能となってたのだ。
古来の共同体間の知恵や手間が入らなかった結果、甚大な増水と堤防決壊が起きたのだ。川床の改修やら排水路の確保などは本来の地元の水利組合の作業事であった、それが働かなくなったのだ。
人も居なくなった、クニのお仕着せがまかり通るのも無理からぬけれども。

0