昨日は昼下がりになって次第に、ツウかいつの間にか雨は止んでた。気温は上がらず終いで、結局は晴れたもののホント冬めいた。雨に打たれた自転車を引っ張り出して夕方にチョイ乗り、メダカの餌やりを忘れかけてたし、ホントは身体が鈍ってたので運動がてら〜ちっともタシには成らンカタけども。いとこのSさんのアドバイスのオカゲでか今回は3個水槽の30匹余りが元気に泳いでて、水面を覆い尽くすヨニ繁茂した水草を掻き分けて餌を与えると、貪る様に活発化する。見てて飽きないものだ。
風が冷たく成り出したけど、身を切る様な程じゃあ未だ無い。マダ冬ではない証拠、深まる秋の気配はしかし濃厚だな。
そんな中にポストに封筒が投げ込まれてたノを開いてみれば、関東は埼玉さいたま市の「レ ザンジュ」会誌第三号が届いてた。
二号を去年に発行した様だが何の音沙汰も無かった。驚いたことに、同じく雑誌「遠くまで行くんだ」「劫」などを主宰した小野田襄二ジョウジの追悼号とあった。
それによれば今年'21初頭に持病を悪化させて遂に心肺停止、鬼籍に入ったらし。私にとって彼は言わば「千夜千冊」の松岡正剛を思わせる程の練達辣腕の革命者みたいにも感じられた。調べるとWikipedia は以下の如く〜
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小野田 襄二(おのだ じょうじ、1938年(昭和13年) - )は日本の政治運動家、作家、編集者、専門学校講師。元中核派政治局員。学生運動の「ヘルメットにゲバルト棒」スタイルの創始者〜
新木正人『天使の誘惑』に収められた「更級日記の少女ーー日本浪曼派について」なる論考が最初に載せられた個人誌とも言えようか。時代的には私がの大学入学前の発行、それでもサークル部室で他クラスの川崎の中華料理屋のお坊ちゃまが神田で買って来たよ、と見せびらかしたのを覚えてる。埼玉大学と言えば国立大で私立の法大とは繋がりあるとすれば、学生運動の主流を走ってたマル
学童学同中核派が勢力を誇った〜ツウ話、ずっと新木正人も埼大生と勘違いしてたのは、3つ目上の古株だったからである。しかもサークルと言っても学友会系ではない学部学術系だから、三万人も在籍するとかの内の歳上ならば先輩には違いないが、顔見知りな訳でもなし。
それでも、党派に拠らない思想運動を展開し出した点に、汚辱にまみれた政治党派に見切りをつけて自らが革命を目指すところに活路を見出し始めた私らが強力な参考書めいてたのも確かだ。
それが連合赤軍の同志リンチ殺人の逃避行や浅間山荘のライフル発砲事件とか、中核革マル両派の殺戮合戦、それも無関係な人違いも混じり、革命なんぞ知らんヤクザ顔負けの傍若無人振りは、もうサヨクシンパシーそのものも辟易せられる感覚を植え付けて、政治運動なんざ金輪際ノータッチの方が絶対に生きていき易いとな。
次第に学生だった能天気な私も生きることに意味を持たせねばならない時期が確かに来ていたのだ。
人は何故に生きてゆかねざならないか、その哲学を先ずは生活する事から始めねばならない、それは田舎者にとっては死活問題でもあったが、親のスネかじりで上京した身、オメオメと帰郷するに忍びなくて学生運動で警察に逮捕勾留され、また安易に同級生の様に就職活動をする訳にも行かず〜結局は紹介されたアルバイト先を転々として留年生活を抜けて、やっと小さな出版社に就職した頃には、モウ政治運動のコトなど思考の彼方へ押しやらねば生きて行けぬほど、生きること生活する事が日常となってた。
つまり必然的にか、或いは本能的にか、臆病者の生き方を選んでたのかも知れない。
都会的なシティボーイやガールなど皆んな就職してしまい、或いは学生を無事に卒業して社会人となった連中が多い中で、私みたいな半端者には、結局は社会を斜めにしか見れなくなってしまったかもしれないが、それでも頼れる少数の友人らも居て、それが心のオアシスとなって何とかして生きてゆけたのは幸いだろう。
そして、この「遠くまで行くんだ」の連中もそれぞれがソレなりに生きてったらしい。
そして今度の主幹小野田襄二の訃報、近年までに『革命的左翼という擬制』を著し、ナント『やりなおし基礎数学』や『存在と認識の狭間で何か?〜アインシュタインの相対性理論の誤りに挑む』〜とはね。
学習塾の講師を務めてた様だが、そうかぁ理系の才を打ち出して生きてたんだなぁ〜それからの発想かと今頃に又もや感心する。
理系と言えば、巨人の吉本隆明も元々はそうだし、歌人の岡井隆や斎藤茂吉も医師である。宮沢賢治も鉱物学やら地学もものしてた程の英傑なんだよなぁ〜
今更に昔の学生運動の内実なんざ知ってもどうにもならん、けども身近な環境としてのそれは私のサラダディの中にも確認事項としても有難い、何の生活のタシにも成らンけれども(^^)
兎に角、また読み終えたい本が増えてしまった。読まずに死ねるか〜ッと誰かが叫んでる〜^_^
なんと恨みがましいコトよ、他の人を介しての交流、響き合うかどうかも最早知り得ないけども、コンナ田舎モンでもかつては交流の火花を散らしたい人士でもあった。しういう恨み、晴らしても少し私は先へ行きたい。
両切りのタバコ吸ってた〜とか?虚血性心疾患?つまりは動脈瘤破裂なのかな?或いは私と同じ心房細動?享年82歳。平均寿命に近いが、も少し生きても欲しかった気がする。まぁ私が挙げる訃報の主は皆んなソウなんだけども。
人は生まれ、人は生き、人は死ぬ! 聖者必衰の理、無常なるやも〜

あ、横になってしまった。季節は秋、ニッポン存亡の秋でもあるメェ〜けどね、かつてそう言う思索の果てに日本革命を夢見た維新者が居たことだけは間違いない。
夕べはFM放送で、ショパンのピアノ曲ノクターンを前後6曲ずつ計12曲も流してたのを聴いた。知らぬとは言え、ノクターンが他にも有り全部で21曲だったかな?〜あろうとはねぇ。別れた女房はピアノを弾きながら教えてもくれなかったナ、聞かなかったのが悪いけど。自然と彼女をも想い出したり〜ピアノを弾く少女が大人になって自宅でもピアノを弾くのを夢見たとかは聴いたノも。
夫らしき事は何一つ出来なかった、
子供を欲しがってせっせと不妊クリニックへ通い出したのは、30歳という時限爆弾が破裂する前にとの切羽詰まった懸念からだったな。早過ぎたのじゃあるまいか?マァ、それも過ぎたこと、過ぎたるは及ばざるが如し、然れども〜力を尽くさねば過ぎたるも何も無しヨの〜その後の行方を聞こうとも敢えてしなかった。幽かにいつか何処かで死んじゃったらしいと一度だけ親友からの伝を聴いた。それも彼女の選択でとあったのだ、私の知る由も無いけどね。既に我も彼女も二親共にあの世へ旅立ったもの、秋はいよいよ深まろうとしてる。

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