
全く自分の無学振りを情け無く思うも、嘘を付く訳にイカンので傍らに国語辞典を置いてて時に調べる。
その辞書も子供時代に姉から自分、そして弟と3代に渡って中学〜高校と使われた?代物で、先頃に東京は神田神保町の三省堂ノじゃなく小学館の金田一少年の事件簿ジャナカッタ〜金田一京助先生編。マ、それでも足りなきゃ岩波の広辞苑〜コレは、第六版ネ、本棚の塵芥にと飾ったヤツで学校出てからヤット自前で買えた貴重な書籍で、息子が自慢気に中学に持参して使ったらしい。

あ!辞典の話でなかった、ツマリ掲出の絵〜明治は東京市、小石川区(今の文京区ネ〜)小日向水道町に在った講道館柔道の道場の場面。
どういう経緯かは長くなるので省くも、柔道(以前は柔術として武術の一流派を成したが嘉納治五郎が統一して柔道と成した)の稽古に余念がない東京専門学校〜現在の明治大学の前身、生徒で講師も務めてる書生の太田仲三郎を、ヤクザ渡世は会津斗南出身の侠客堀紫郎が訪ねた場面。
気になったのが、その道場に架けられた扁額の意味不明で【
電影春風】とは一体何ぞや?〜

小学館国語辞典には流石に不記載、でも便利なネット逍遥では一発!
流石は21世紀!
話は漫画の『坊っちゃんの時代』そのものに戻る訳で、ツマリ小説『吾輩は猫である』へと繋がるのだった。チャンと本を読んでないショウコジャン!祥子ちゃんと書いたらチャウ!娼婦の昌よ〜って応えた日大文理から亡命してた児童文学研究会の細身の娘を想い出すナァ〜ア!横路〜北海道知事。
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電光影裏斬春風 (仏光国師語録拾遺)でんこうようりにしゅんぷうをきる 『白馬蘆花に入る −禅語に学ぶ生き方−』 (細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より〜臨済、リンノウネットより
「 夏目漱石は鎌倉円覚寺えんがくじの名僧、釈しゃく宗演そうえん(1859〜1919)について禅を学んだ経験があり、彼の代表作『吾輩は猫である』の中で哲学者八木独仙どくせんをしてときどき語らしめている言葉が、この「電光影裏に春風を斬る」の語です。
すなわち、何でも昔しの坊主は人に斬り付けられた時、電光影裏に春風を斬るとか、何とか洒落しやれた事を云いったと云う話だぜ……。
禅寺の問答じゃない、以下にその意義を由緒正しく述べてある。
即ち円覚寺の創建時に無学禅師が伝えられたのが、コノ扁額の語句であるようだ。一応はこのクマ目も講道館柔道の門下生とした黒帯を15才の春に認可された端くれ、なので興味ツンツン、連れラ・ロつらつら〜
三四郎はその中に既に萌芽してたみたいだなぁ〜
漱石は明治政府から命ぜられて英国留学を果たしたが、彼の地で発狂してしまい以後死ぬまでその神経症なる精神疾患は癒える事はなかった。
それはこの漫画中に如実に示されてるし、文学史の中にも明記されてる。よもや日本国の郵便切手や或いは紙幣にまでなった名士文豪が精神病に悩まされたとはネ、誰ぞ知るや〜
多分に当時はそれよりも、ヤッパリ帝大教授がモノを言ったんだろうなぁ〜
そして今頃になって見過ごしてた〜漱石は元々は下戸であって酒乱癖が有り、警視庁のブタ箱に留置せしめられた〜とはネェ(笑)
そりゃあトンダ災難で〜イヤその酒場、銀座のビヤホールよ〜当時のおカネで総額40円也〜を損害賠償したと。原作者関川夏央は書いてる、即ち〜当時米一升は23銭、大工の一日の手間賃は1円だった。盛りそばは2銭〜3銭、市街電車は一律3銭、中山道沿いの仲宿ナカジュク〜東京のはるか外れの片田舎の長屋の家賃は2円80銭〜〜の時代だよ。
それは又置いといて〜
ビヤホールに出入りしてたのは、国木田独歩や石川啄木等も居たそうで、絵の書生に侠客が漱石の家にも出入りするようになった!ってぇのも面白い。
詰まりは、坊っちゃんの時代、と言う筋書きで、漱石の住まいの縁側、当時の日本の家屋にはこの陽が当たる南側には必ずや縁側を設える様式が有り、そこで茶飲み話が演じられたもの。漱石の書斎の濡れ縁がソコには描かれてる〜そこへ一匹の黒猫が紛れこんで来たのだ。
吾輩は猫である、の始まりは既に始まってたのだ。
侠客の堀はかつて帝大の英語文学教授だった外国人教師ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の屋敷に出入りもしてたと話す!
島根出雲の松江から東京へ出て来た八雲は、年俸400円だったか?超高給で教鞭を取ったが、その教室に度々偽学生として出てた会津の侠客はシェイクスピア文学を習ったと言う。
〜所に英国から帰って来る漱石が登場、日本人教師が登場するので八雲はお払い箱となる、そしてその八雲は今で言う処の生活習慣病たる狭心症の発作に襲われて明治37年9月26日に死んだ。
因みに漱石が英国留学から帰国する一年前に、写生を実験し短歌革新をも唱えた病牀六尺の歌人正岡子規その人も死んだ。
人は生まれ、人は死んでゆく。

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