【元祖】岩本太郎ブログ2005-2009(私の退屈な日常)

あるいは私はいかにしてフリーライターから進化して100円ライターになったか

 

管理人プロフィール

岩本 太郎(いわもと・たろう)    1964(昭和39)年名古屋生まれ。静岡市育ち。岩手大学人文社会科学部卒業後、1988年に東京へ。広告業界誌の編集者として2社で通算約6年半勤務した後、1995年にフリーライターとして独立。放送・出版・広告などマスコミ界の動向に関するレポートを主に手がける。また、オウム真理教(現・アーレフ)問題など、社会的に話題を呼んだ事件の現場ルポ等にも取り組む。共著に「ドキュメントオウム真理教」「町にオウムがやって来た」など。 email HZU00512@nifty.ne.jp

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投稿者:岩本太郎
どうも書き込みありがとうございます。>読者さま

>表現としての様式は残ったとしても、
>それが「産業」たり得るかどうかは、
>お金が動くかどうか、ということではないでしょうか。

そうですね。ご指摘感謝です。

ただ、上の本文は「産業足りえるかどうか」以前の「表現として社会的な存在意義や存在領域をオーディエンスから認められるかどうか」という部分を主眼に論じようとしたつもりだったんで、その意味では産業云々の話とはもっときちんと整理したうえで書くべきでしたね。そこはちょっと反省しています。

そのうえで今の私には、なんていうか「メディアが『産業』足りえるか否か」という問い自体が、あくまで「手段」でしかなく、それが「目的」や「本質」ではないんじゃないかという気がしているんですよ(同様に、趣味のメディアと商業メディアを区分けすることにも、実は大して意味はないんじゃないかな、という気も個人的にはしています)。

それ以前に、本当の意味での公共財なり、公益的な意味のあるメディアや表現というものの存在をどうやったら確立できるのかな、といった議論のほうに、今の私の関心はあるんですね。

そのための手段の一つとしてはやはり「産業化」ということもあるんでしょうけど、昨今の世界を股にかけた経済の破綻ぶりとかを見るに、あまりそこへ期待しないほうが良さそうな気もしているところですが(^_^;

と、まあこの辺のことは書き出すとまた長くなっちゃいそうなので、いずれまた改めて本文にでも。ともあれ、コメントありがとうございました。
投稿者:読者
表現としての様式は残ったとしても、それが「産業」たり得るかどうかは、お金が動くかどうか、ということではないでしょうか。趣味の映画、趣味のミニコミ等とは分けて考えないと。
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