だからといって何かをネダろうというつもりもないんだけど(苦笑)、本日24日は私の誕生日です。今年で45歳。とうとう時計の針が4分の3まで回っちゃったよ。
以前にも書いた通り、父親が37歳で病死しているということもあって、若い頃の私は「絶対俺もそのくらいまでにくたばっちゃうんだろう」と思っていた(いや、別の意味でここ数年くたばり続けてますけど ^_^;)。
そんなわけで、よもや手が届くことなどなかろうと決めつけていた40代だったのに、それも気がつけば早や折り返し点。まあ、内実は依然あれこれ問題山積状態なのだが、ともかく、ここまで何とか生きてきたこと自体は「めでたい」と言うべきなんだろう。はたしてこの先、4分の3を超えた人生の時計の針がどこまで回ることになるのか見当もつかないところですが、何はともあれ今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
で、そんな折に書く表題の「昔話」って何なのかといえば、実は
先日の献血の際に久々に思い出した、今から23年前の学生時代のエピソードだったりする。
いや、基本的には単に「誕生日に献血をした」というだけの話なんですけどね(汗)。ただ、上に書いたように「思いがけずここまで生きてこられた」ことへの感謝の意味も込めて綴る、少々物悲しいお話です。
1980年代中盤(昭和60年前後)、私が住んでいた岩手県盛岡市の学生寮には結構頻繁に「献血」への協力依頼がきた。といっても、例の献血バスが玄関までやってきたわけではない。市内にある医大付属病院で手術を受ける患者の御家族から「輸血用の血液が足りないらしいので、どうか!」と頼まれるというケースが多かったのだ。
なんたって20歳前後の元気な男子学生ばかりが160人以上も住んでた寮だ。A・B・O・ABと一通りの血液型がそれなりのロットで揃っていたことだろうし、電話番の寮生が、かかってきた電話を受けて寮内放送で「緊急の手術のため○型の血液が要るそうです」とやれば、たちどころにそれなりの人数は集まる。ある意味では地元社会における結構重宝な「血液バンク」でもあったのだろう。
もちろん、そこは学生ゆえタダでは動かない。いや、というか別にみんなそこを期待してたのが主動機でもないんだろうけど、駆けつけた医大病院で献血を終えた後、玄関を出たところで患者のご家族が「ありがとうございました」と言って「謝礼」をくれるケースが多かったのである。もとより、あからさまにやっちゃうと法律では禁じられている「売血」になるということからそういう体裁がとられていたわけだが、私も一度、秋口に玄関を出たところで患者の御家族から万札を握らされ、大喜びでそのまま念願の電気炬燵を買いに行った覚えがある。
ただし、22歳の誕生日だった1986(昭和62)年のその日に舞い込んできた献血の依頼については、今でも思い返すと辛くなる。
依頼してきたのは、近隣に住んでいた、当時30歳前後のご夫婦。ご主人は私が通っていた大学のOBで、ご自身も寮に住んでいた経験を持っていたらしいのだが、生後まもないお子さんが心臓か何かの深刻な病気で手術を受けることになり、輸血用の血液を求めて“古巣”の学生寮まで連絡してきたという。
必要な血液がA型だったことから、ほどなく十数人もの寮生たちが集まった。ただし、集まった中では四年生の私が一番先輩格だったことから、ご夫妻との窓口役も何となく流れで私が務めることになった。
(ここで脱線しますが、それにしても、私が「血液型はA型です」と自己申告した場合、返ってくる反応が「いや〜典型的なA型さんですね」というのと「嘘だろ! B型だろーがどう見ても。せいぜいABだろ」というのに両極端に分かれるのはなぜだろう。まあ血液型性格診断なんて全然信じてないからいいんだけどさ)
医大病院への車中、ハンドルを握りながら「いや〜、僕も学生時代はさ〜」と思い出話を楽しそうに語っていた御主人の横顔を、助手席に座った22歳0ヶ月0日の私は「今この状態で、どうして見ず知らずの学生に対してそんな気さくに振舞えるんだろう……」と思いながら見ていた記憶がある。
医大病院に着くと、これから手術を担当するトクターが我々の前に現われ、緊張した面持ちで「みなさん、どうか宜しくお願いします」と挨拶した。もとより、どういった手術なのかについての詳しい説明などはなかったが、いかにも難しい状況なのだという空気が、室内にはみなぎっていた。
あっという間に採血が終わって外に出ると、御主人が先刻同様の屈託ない笑顔で私を待ち構えていた。お決まりの謝礼を私の手に握らせ(幾らだったか全然覚えていない)、「今日はこれから(口元で手をくいっとさせながら)飲るんでしょ? いいねえ」と微笑む御主人。自身はこれから、最愛のお子さんへの夜通しマラソン手術が待っている。
何と声を返していいものやら分からぬまま、ぺこりと頭をさげて帰路に着いた。ご夫妻とはその後、一切連絡をとっていない。
けれども数日後。
「○○さんの手術で御協力いただいたかたですか?」
医大付属図書館のカウンター越しに、分厚い医学書を何冊も抱えたドクターから声をかけられた。見れば、先日のご夫妻の息子さんへの手術の前に挨拶に出てきたドクターだった。慌しい中でほんの数分間、他の十数人の学生と一緒に会っただけだったのに、どういうわけか私の顔は覚えていてくれたらしい。
というか、何で私がその時そんな場所にいたかというと、その少し前、自分が通ってた大学のバイト斡旋窓口で医大付属図書館でのカウンター窓口業務のアルバイトを紹介され、平日の夕方にはほぼ毎日ここに通っていたからだ。
ただ、例の献血ルートとは全然別の方面からの紹介だったし、病棟と図書館も場所が離れていたため、まさかここでくだんのドクターと会うことがあるとは思わなかった。というより何より、呑気で何も考えない学生だった私はその頃には数日前の手術のことなどすっかり忘れ「今日の寮食堂の晩飯のおかずは何かなあ……」ぐらいにしか思っていなかったのだ。
「そ、それで?」動揺を抑えきれないまま私は聞いた。「手術の結果は?」
「手は尽くしましたが」とドクターは静かに言った。「残念ながら……」
その日は何だかその後、仕事が手につかなかった。勤務が明け、駐輪場に停めていた愛用のオートバイにまたがり、市内の道路を寮へと向かう帰路でも、あの日のご主人の朗らかな表情、そして結局会うこともなかったお子さんのことが、ずっと頭の中をよぎっていた。
22歳になったその日の僕があげたあの血液は、生まれたばかりの小さな身体で懸命に死との闘いに臨んだその子の体内を駆けめぐったんだろうか。そして僕の血は、その子の命を少しでも長らえるのに、はたして役立ったんだろうか……。
何より「誕生日」だった自分の血を捧げた生後まもない子が死んでしまったことは、22歳だった私の中に、あたかも「自分の一部が死んでしまった」ような喪失感をじわりと植えつけた。もとより、本当に自分の「血」を受け継ぐ我が子を失ってしまったあのご夫妻は、今頃どうしているんだろう?
そんな私が今日で45歳になった。「どうせ俺なんて早死にするよ」とか、その頃から言ってたくせに、とうとうあの日の2倍プラス1の年齢になっちゃったのだ。
亡くなったその子は、生きていれば今春で22〜23歳。当時の私とほぼ同年代であり、そろそろ社会人として船出する時期にさしかかっていたはずだ。
「早死にすると思ってた僕が、君のぶんだけ齢を倍にとらせてもらったよ」
誕生日に、そう一人ごちながら今日は杯を重ねることにします。ではでは。

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