深笛義也さんの日記を読んで、そういうものが行われていると知った。ふむ、なるほど。
「
裁判員制度広報用映画『審理』再公開及び作品保存を求める署名」
よりによって、そういう映画の主演女優が、そういうことになってしまったという件(くだん)のニュースを、私自身は「ありゃまあ」とぼんやり受け止めていた程度だったのだけど、言われてみれば確かにこれは表現者の立場からして由々しき問題である。別に出演者が後になってどんなことになろうが、だからといってその作品までが問答無用に「封印」までされてしまう謂われはないはずだ。
まあ、公開する側にとって少々バツが悪いとか、「そういう者を主演に起用していたこと自体の見識」を後からあげつらう声が出てくるくらいは仕方がないかもしれない。何より、ただでさえ悪評や懐疑的な意見の多い裁判員制度を良い方向にPRしたい最高裁にとっては、これでますますミソがつくのは避けたいことだろう。これに限らず、一般の広告主企業がCMに起用していたタレントを、当人の不祥事を理由に出稿停止とするなんてことは今まで、というか特に最近は数多(あまた)あったケースだし、広報・宣伝戦略の範疇からすれば、ある意味「常道」ではある。
とはいえ(これは他の「CM中止」問題などにおいても本来スポンサー側が徹底的に問われなければならない部分だと思うのだが)ひとたびでも自らの発意で世の中に送り出したものを後から引っ込めるならば、送り出した(後に引っ込めた)側はその理由について訊かれた場合、中途半端に逃げずにとことん向き合って説明すべきだろう。
ましてや、映画のテーマは「裁判員制度」だ。義也さんが日記で指摘している、
>裁判員を演じた女優が犯罪容疑者になったということは、
>裁判員が犯罪者であり得るということを、容易に連想させる。
>それゆえ、最高裁はこれを封印しようとしているのだろうか。
>裁判員制度の導入は、そんな覚悟のないものだったのだろうか。
>ダイレクトに選ばれる裁判員が、発覚していない犯罪者であったり、
>それ以後に犯罪者になるということは、十分にあり得ることだ。
との問題提起は本質的に不可避なものだ。裁判員制度自体の中身が問われている昨今だけに、むしろ今回のような不意の事態に対しても、最高裁側には毅然として答えうるだけの強靭さが求められているのではないか。
あと、やっぱり制作者の思いが全く届かない次元でこうした判断が下されてしまうとこと自体に、表現を生業とする者としてはカチンとくるものを覚えざるを得ない。これについても、義也さんがこんなふうに書いている。
>癌を宣告される中で、命を刻むようにして映画を作り上げた監督にとって、
>これが遺作となってしまった。
>まさに本人の手の及ばないところで、封印されようとしている。
これについては「少し心情論に流されていないか」と見る向きもあるかもしれないが、しかし私も正直「身につまされる」との思いから、この見方に同意する。だって表現者の端くれとしては、こういうのに「やりきれない」思いは禁じえない。というか、そもそも論理性を問うならば、およそ理性的でない、恣意的な判断で拙速に「封印」を決めた側に対して先に問うていくべきだろう。
というわけで、この件に関しては「封印はおかしい」という側に一票(もっとも「署名」という行為についてはかねてより思うところがあって、上記の件については未だしていません。悪しからず)。

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